過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

内側のシグナルに気がつくこと

心はあえいで身体に反応がある。そこで気がつかないと、かなりひどくなって痛い目に遭って、やっと気がつかざるをえない。

そのときになって、鎮痛剤を使ったり患部を切除したりすると、一時的には痛みから解放されるかもしれない。が、もともとの原因を改善していないんだから、ますますひどくなるのではなかろうか。

大事なのは、常日頃から身体に響いている内側のシグナルに気がつくことだ。
ところが、いつも頭で考えていると、身体感覚は鈍くなる。しかも、なにか「正しい」ことをしていると思っていたり、「がんばっている」と、これまた鈍いのだ。

当時の私は、会社に貢献して頑張っているという意識が強かった。おまけに、仏教を勉強して菜食主義だった。それは「オレは立派な真理を学んでいるんだ」っていう、まことに始末に負えない男だね。

しかも、花をスケッチしたり、芸術を鑑賞したりで、自分は感性が豊かだと思っていた。でも、自分自身の体の悲鳴、心のあえぎには感性が鈍かった。体と心への精妙な感覚をつかんでいなかったのだ。

仏教は、学んでいた。でもそれは、知識であり理屈で、心とは別のものを学んでいた。最も肝心なのは「自分の心」を学ぶということ。それこそが、仏教の本質だと思うのだ。

自分の体と心に気づかずに理屈をたくさん蓄えるのは、牛飼いが他人の牛を数えるみたいなものだ。

そうして、自分の心に鈍感となると、相手の心にも鈍感だ。だから、知らずに相手に不快な思いをさせていたことと思う。