過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

「生存力」と「生存欲」

外風呂を沸かすときに、長い板はノコギリで切ることあるが、得意なのは「ハーッ!」と叫んで踏みつけて割ることだ。バキッと割れるのは気持ちがいい。
ただ、とききに板が跳ね返って膝頭に当たることがある。
さきほどは、それで思い切り当たって「いたたたた‥‥」と動けなかった。
  ▽
そのとき「痛み」ってなんだろうなあと考えてみた。

痛みが起きることで、全身が治そうとしにいく。治そうというエネルギーがそこに集中するのだろう。痛みはそのメッセージ。

そんなふうに感じた。
いわば「生存力」のあるうちは、痛みが伴う。
これが「生存力」がなくなると、痛みはどうでもよくなる。

不快とか辛いとか痛いとか、そういう負の感情は、そこにむかって全細胞が治そうと動いているんだ。そのように感じた。
  ▽
で、ここからが仏教的な話だが、生存力がなくなると、死に至る。
それでおしまいかというと、そうじゃないのかもしれない。

生存力がなくなっても、「〝もっともっと〟という生存欲」はあるのではないか。
その欲が、次の転生を決める。かくして輪廻は続くのではないかと。

としたら、仏教の悟りとは、この「生存欲」をなくすこと。
いわば「渇愛」(タンハー Taṇhā)をなくすことにある。
「生存力」があって生きていても「生存欲」はない状態、「渇愛」(タンハー Taṇhā)がない状態。
それが悟りであり、阿羅漢(arahant 聖者)ということか。
それで幸せなのかどうかもわからない。