過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

戦没者の遺骨収集の活動

友人が戦没者の遺骨収集の活動をしている。しかし国民の多くはそのことを知らない、
わかりやすいところからまとめた本をつくたらどいかと、まえがきのたたき台を考えてみた。
日本が、戦争をしていたことを知っていますか。
ここでは、アジア・太平洋戦争と呼びます。
日本は、あのアメリカという大国と戦争していたのです。
そして、イギリスやフランスの植民地であった東南アジアにも攻めていきました。
いまから70年も80年も前のことです。
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兵隊として招集された国民は、およそ700万人以上。除隊者などを含めると、動員された兵力は、実に一千万を超えます。これは、当時の日本人の、男子総数の四分の一以上。ほとんどの家が出征兵士を送っていたことになります。
そのうち200万人近くが戦死しました。空襲や原爆の犠牲者、また沖縄、満州などで戦火を浴びた、非戦闘員等の死者を加えると、軍、民合わせて二百五十万を超える尊い人命が失われたことになります。
たとえば、ある村ではおよそ500人という働き手の男の半分が出征しました。一家の大黒柱、跡取りの息子でした。しかし、そのうちの半分は、二度と故郷に帰ってくることはなかったのです。
戦死と言っても、戦闘で闘った人よりも、病気や飢えで亡くなった人が多かったのです。たとえば、ガタルカナル島という南方の島では、三万人以上の兵士が投入され、二万人の兵士が命を失いました。二万のうち戦闘で亡くなった者は五千人です。残りは飢えと病で亡くなったのです。
もう戦うことなどできません。歩くこともできません。「立つことの出来る者は三十日、座ることの出来る者は三週間、寝たきりになった者は一週間、寝たまま小便する者は三日、ものを言わなくなった者は二日、まばたきしなくなった者は一日の命」(百田尚樹 『永遠のゼロ』)と言われたようです。
戦死者の数は軍人、軍属、准軍属合わせて約230万人、外地の一般邦人死者数約30万人、内地での戦災死亡者約50万人、合わせて約310万人ともいわれています。
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外地で戦死した方の遺骨はどうなったのでしょうか。
これまでに約34万柱の遺骨が収集されています。陸海軍部隊や一般邦人の引揚者が持ち帰ったものを含めると、海外戦没者約230万人のうちの約半数(115万柱)が送還されています。
そうすると、未収容の遺骨は約115万柱ということになります。それらは、まさに放置されているということになります。
遺骨を収拾しよう。それがなければ、戦争に行った人たちは浮かばれないではないか。遺族としても、放置されたままではやりきれないという思いがあります。
けれども、海没したり、相手国の事情により収容が困難な遺骨もあることでしょう。
戦死者の親など、もはや生きているはずがありません。子孫や親戚・縁者はいることと思いますが、遺族も生きてはいないでしょう。戦争が終わって80年余もたちます。きもちはかなり薄らいでしまっています。
放置された遺骨は、現地では道路や建物や施設が建つようになればどうなったのでしょう。そのまま土中に埋められたり、廃棄処分されたものも少なくないことでしょう。
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・遺骨収拾はいつからはじまり、どのように運営されてきたのか?
・遺骨が放置されたままになっているのは、どの地域にどれくらいあるのか? Mapで示すとどうなる?
・遺族は遺骨を収拾してもらいたいと思っているのか?
・戦死した人たちは、すでに死んでしまっている。しかし自分の遺骨が放置されていることに対して、どのような思いでいるのだろうか?
・こういった事も含めて、そもそも遺骨収集とはどういう意味があるのか?
そのようなことを、明らかにしていきたいと思います。
参考
・遺骨収集とは、第二次世界大戦中の日本人海外戦没者の遺骨を探索し、集めること
遺骨収集事業は、国の責務と位置づけられており、2029年度までの5年間が集中実施期間とされています。2023年7月28日には、公明党が推進してきた科学的鑑定の体制強化などを明記した新たな基本計画が閣議決定された。
遺骨収集事業では、現地作業員と協力して収容作業を行います。派遣団員が1柱ずつ丁寧に遺骨を収容し、日本と現地の双方の遺骨鑑定人により、日本人の遺骨である蓋然性を確認するために慎重に遺骨の形質鑑定を行います。遺骨の一部をDNA鑑定用の検体として日本に持ち帰り、所属集団の判定を行う。
遺族がDNA鑑定を希望する場合は、厚生労働省のホームページからダウンロードできる「DNA鑑定申請書」に記載して提出する。DNA鑑定実施可能とされた遺族には検体採取キットが届き、遺族が採取し提出した検体を厚生労働省が鑑定機関に渡して、遺骨とのDNA鑑定を行う。DNA鑑定料は全額国が負担する。