過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

八幡神と日蓮

八幡神の起源から神仏習合、そして日蓮の主張を俯瞰してみた。
八幡神をめぐる考察。外来の神様、外来の仏様。そして、神仏一体、本地垂迹。仏法の守護神。源氏の守護神。そして、日蓮のとらえかた。

八幡神は現在では日本一多く祀られており、全国に4万社以上ある。
八幡神は、九州の宇佐八幡宮が本源だ。朝鮮半島から渡来した新羅伽耶(辛国)の人々の信仰と推定されている。大漁旗を意味する海神だとか、鍛冶(鉄器加工)の神という説もある。
そして、宇佐八幡宮は、東大寺の大仏建立のために宇佐から勧請される。860年には石清水八幡宮に祭られ、都の守護神として広く崇敬された。誉田別尊(ほんだわけのみこと)の祭神名でまつられていたが、平安時代には祭神に応神天皇神功皇后を加え、伊勢神宮につぐ宗廟となった。
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八幡太郎義家が八幡さまの水で産湯を使ったということで、八幡神は源氏の氏神なる。
やがて武家政権が成立。鎌倉幕府は、鶴岡八幡宮におかれた。御家人たちも武家の守護神として自分の領内に勧請するようになる。武家の守護神であり、戦の神で武術の守り神として全国に広く普及する。
やがて神仏習合して、仏法守護の働きをあらわす八幡大菩薩になっていく。「僧形八幡」などの像もあり、八幡神が坊さんのスタイルである、
これは、日蓮の文書からの解釈だが、八幡は、ハチはあまねく広い。幡は、巾は衣類を表す。そして、番は田んぼをあらわす。ということで、戦の神で武術の守り神であるとともに、衣食を守護する諸天善神ともなっていく。
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日蓮扶桑記を引用する。
伝教大師八幡大菩薩の奉為に神宮寺に於て、自ら法華経を講ず、乃ち聞き竟て大神託宣すらく我法音を聞かずして久しく歳年を歴る幸い和尚に値遇して正教を聞くことを得たり」(「三世諸仏総勘文教相廃立」偽書ですけど)。すなわち、八幡大菩薩は、『法華経』を聞いて大いに喜んだというのである。
そして、日蓮は言う。いま国土が乱れ、飢饉や疫病が流行するのは、八幡などの守護神が国を捨てて去ってしまったからだ。「世皆正に背き人悉く悪に帰す、故に善神は国を捨てて相去り聖人は所を辞して還りたまわず、是れを以て魔来り鬼来り災起り難起る」(『立正安国論』)
なぜ、諸天善神が国を去ったのか。それは、邪法が広まったからだ。すなわち、法然の念仏などが広まったので、去ってしまった。だから、「国土乱れん時は先ず鬼神乱る鬼神乱るるが故に万民乱る」(『仁王経』)という。それは、正しい教えのエネルギーが得られないので諸天善神が去っからだという。
だから、飢饉や疫病、戦乱を鎮めるには、邪法である念仏や禅を禁止して正しい教えである『法華経』を信ずることだ。
そうすれば、諸天善神が帰ってきて世は平和となる。これを実行しないと、もっとひどいことになるぞ。
すなわち「他国侵逼の難、自界叛逆の難」(たこくしんぴつのなん、じかいほんぎゃくのなん)がくると鎌倉幕府に詰め寄った。『立正安国論』は文応元年(1260)に前執権の北条時頼に提出した。
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しかし、幕府にしてみたら、日蓮の言葉はたわごとであるとして無視した。あまつさえ、他宗に対する悪口誹謗がすぎるとして、逮捕され斬首されそうになる。
「わがいのち、これまで」と覚悟した日蓮は、捕縛されて乗せられていた馬から降りて「八幡大菩薩に最後に申すべき事あり」と八幡宮に向かって叫ぶのであった。
「さては十二日の夜武蔵守殿のあづかりにて夜半に及び頸を切らんがために鎌倉をいでしにわかみやこうぢ(若宮小路)にうちいでて四方に兵のうちつつみてありしかども、日蓮云く各各さわがせ給うなべちの事はなし、八幡大菩薩に最後に申すべき事ありとて馬よりさしをりて高声に申すやう、いかに八幡大菩薩はまことの神か」(『種種御振舞御書』)と八幡神を脅すのであった。
その八幡神の守護のためか、日蓮