過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

浄土真宗のお坊さんとの対話⑤懐中名号

浄土真宗のお坊さんとの対話⑤


「懐中名号の中身です。戦争中の、西本願寺門主 大谷光照の印鑑が押してあります。これをもって、若人は戦争に行ったわけです。
──なかなかシンプルで趣のある懐中名号ですね。これを肌身離さず持っていれば、阿弥陀如来に守ってもらえる。戦死したとしても、極楽往生できるというわけですね。
「念仏者は無碍の一道なり。そのいわれいかんとならば、信心の行者には、天神地祇も敬伏し、魔界外道も障碍することなし」(歎異抄)と。
「光照法主は、戦時下の教団を指導しました。神祇不拝を旨としていた宗風を放棄し、〈王法為本ノ宗風ヲ顕揚ス是レ立教開宗ノ本源ナリ〉と宣言して、国家神道と結びついた〝戦時教学〟を推進しました。
──どんなことを述べていますか。
天皇のため命を捧げよ」と説いていました。
凡そ皇国に生を受けしもの誰か天恩に浴せざらん、恩を知り徳に報ゆるは仏祖の垂訓にしてまたこれ祖先の遺風なり、各々その業務を格守し奉公の誠を尽くさばやがて忠君の本義に相契ふべし、殊に国家の事変に際し進んで身命を鋒鏑におとし一死君国に殉ぜんは誠に義勇の極みと謂つべし、一家同族の人々にはさこそ哀悼の悲しみ深かるべしと覚ゆれども畏くも上聞に達し代々に伝はる忠節の誉を喜び、いやましに報國の務にいそしみ其の遺志を完うせらるべく候(『殉国章』1943昭S18年ごろ)
──まさに、戦時教学。しかし、敗戦のとき、なにか責任を取ったのでしょうか。
西本願寺は敗戦後GHQの指導のもとで、宗制の改革を行い、宗主の権限を縮小し、西本願寺の象徴的存在となりました。反省したのかどうか知りませんが、法主の地位を引退しています」
──しかしまあ、全日本仏教会会長とか世界宗教者平和会議京都大会名誉総裁とか歴任しているわけです。
- 1969年(昭和44年) - 全日本仏教会会長(3回目)
- 1970年(昭和45年) - 世界宗教者平和会議京都大会名誉総裁(続く)