ざっくり平安仏教から鎌倉仏教の流れ。
日本に最初に密教をもたらしたのは最澄。それ以前に、雑密というかたちで伝わってきたものはあった。
空海が密教に目覚めたのは、たしか久米寺で大日経を読んだことにあったと思う。空海は「これこそが仏法の中核」と思ったのかもしれない。しかし、書物で学ぶのは限界がある。実際に、唐にいって事相(実践)を伝授してもらわねば、と。
それで、20年間の留学生というの遣唐使に応募して採択される。
いっぽう最澄は還学生。通訳付きで、2年以内に帰ればいい。入唐して天台山に行き、天台のエッセンスを伝授されてくる。
帰国の際に船が出るまで時間があった。ついでにいま唐で流行している密教を持ち帰った。いわば「おまけ」として。最澄は、あくまで天台の「法華一乗摩訶止観」をもちかえるのが目的であり、比叡山に天台宗を打ち立てることにある。
しかし、桓武天皇は、そんな小難しい天台教学よりも、華々しい最先端の密教を好んだ。桓武自身が怨霊に悩まされていたという背景もあった。
効き目のありそうな密教の加持祈祷が人々に関心を呼ぶ。なんたって、最高の国である唐でいま一番はやっている最先端。華麗だしエキゾチック。カッコいい。
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で、最澄は、天皇の依頼で、日本て初めて密教の潅頂(結縁灌頂)をすることになる。自身は本意ではなかったと思う。
ところが、やがて遅れて空海が帰国する。空海は「御請来目録」を提出した。
「20年間の留学をたった2年で帰ってきたのは申し訳ありません。でも、これだけの成果がありました」と目録を示す。
最澄はそれをみて驚愕した。草野球チームに、いきなり大リーガーの大谷がやってきたみたいなレベル。あまりにすごかった。
最澄のすごいのは、いわば東大総長レベルであった自分が、空海という無名の若者の弟子となって密教を学ぶところ。
空海のデビューは、華々しい。弘仁三年 (八一二) 十一月十五日、 高雄山寺 (神護寺) で最初に潅頂が行われる。 これは最澄の要望によるものであった。
最澄を含め四名が金剛界結縁灌頂に入壇。導師は空海。入壇者は、最澄、和気真綱、和気仲世、美濃種人。これがわが最初の結縁灌頂となる。
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翌十二月、 引き続き胎蔵界結縁灌頂が行われた。 総勢百四十人にのぼる。最澄はもちろん彼の高弟や 南都の東大寺、 西大寺、 興福寺、 元興寺、大安寺の一流の僧たち。
最澄や南都の高僧たちが空海導師の下に入壇することにより、 空海の名声は高まる。この高雄山の灌頂は、 空海が中央にも世間にも知られる契機になり、真言密教という新しい仏教の到来を世間に知らしめた。
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最澄は空海から学ぼうとするが、本を借りて書写するばかり。いっこうに事相(実践)を学ぼうとしない。
あまつさえ、弟子に空海から学ばせて、その弟子から学ぼうとした。その弟子は、最澄の元を去って空海のところに行ってしまう。最澄は「どうか帰っておくれ」と、恋々とした手紙を弟子に書く。
そうした最澄態度に、空海は激烈に痛罵する。気の毒なほどけちょんけちょんに。
以来、二人の仲は絶縁となる。
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最澄はさぞかし無念さ悔しさがあったことだろう。念願の比叡山の戒壇も建立されずに亡くなる。
その師匠の無念を晴らしたいということで、さらに密教を深めようとしたのが、円珍であり円仁であった。
そうして、空海の東密よりも比叡山のほうがすぐれているという「台密」を打ち立てる。
比叡山は円珍、円仁、源信、安然など優れた人物がでる。
やがて、天台教学と密教という融合と緊張の中で、「天台本覚思想」があらわれる。すなわち、我が身がそのまま仏であり、もとより悟っている存在であるという思想だ。