過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

「身内みたいな」という言葉がある。

「身内みたいな」という言葉がある。親友なんだけど、より家族に近い関係だ。

先日も身内みたいな友人たちが集まって誕生パーティーを行った。それぞれ祝い合う。あかりも今月末が誕生日だし、友人も来月が誕生日である。一緒に食事をして雑談をすればいい。

何か困ったことがあれば手伝いあう。気楽にふらっと寄ってくれればいい。泊まってもいい。

それぞれ個性が違うし能力が違うし立場が違う。それぞれが役に立つことを発揮していけばいい。畑をせっせと手伝って雑草を抜いてくれる人がいる。部屋の片付けをしてくれる人がいる。僕はたいしたことはしないけれども、いろいろ仏教談義をしたり場所を提供したり。

それぞれがパスし合うというか、気が向いたときに何か役に立てばいい。役に立たなくてもいい。また別の人に役に立つようになればいい。そういう関係性をまさに身内のように作っていく。
れがこれからの時代、コロナ禍の時代にとっても必要かなあと思う。

これがまあ、家族、親戚、地域でできればいいんだけれど、なかなかそうもいかない。なので気の合った者同士、縁のあった人同士が寄り集まって、そしてまた縁があれば自然と流れていく。

縁が尽きればそこで解散していく。まぁそんなコミュニティーを作っていく、できていく。そんな程度がいいのではないかとおもっている。

以下、「日本習合論」内田樹著からの引用。
----------------------
凱風館は武道の道場ですけれども、僕が理想としている一九五〇年代の日本企業のかたちを模倣しています。疑似家族、拡大家族です。だから、武道の稽古と、寺子屋ゼミにおける研究教育活動が中心なのですけれども、そこに参加する門人ゼミ生たちを僕はとりあえず「身内」認定する。そして、みんなで宴会をし、スキーに行き、海水浴に行き、ハイキングに行き、麻雀をする。むかしの「会社」と同じです。
(中略)
凱風館は、構成員は家族を含めると数百人という規模です。そうなると、生活に必要な知識や情報や技能のかなりが共同体内部で調達できます。子守りであったり、引っ越しであったり、IT環境の設営であったり、着付けであったり、就職の紹介であったり、ベビー服のおさがりであったり......そういうことは共同体内で片づく。市場で調達しようとすれば、かなり高額の出費を強いられる商品サービスがここでは無償で手に入る。代価は要りません。贈与されるのです。 

ただし、贈与に対しては反対給付義務が発生します。「もらいっぱなしでは罰が当たる」という精神的な負債感が残る。これはあらゆる「贈与論」が教える通りです。でも、返礼は贈与してくれた人に直接するものではありません。自分もまた贈る機会があったときに、差し出せるものがあれば、それを贈与すればいい。

「パスをつなぐ」という言い方を僕はよくしますけれど、ボールゲームでは、次々と予想外のコース、予想外のプレイヤーにボールを送り出すことのできる"ファンタスティック」なプレイヤーのところにボールは集まります。贈与と反対給付で回る共同体経済でも同じです。

そこでプレイヤーに求められるのは「誰も思いつかなかったようなパスコース」を経由して「誰も予測できなかったプレイヤー」にボールを贈る創造的な力です。「子どもに碁を教える」「釣り師が釣ってきた鯛を三枚におろす」「アメリカの医療経済の状況を三十分でレポートする」......など凱風館で珍重されるのは、そういった「意外な情報、意外な技能」です。
(中略)
貨幣を持っていると、それを何かと交換したくなる。所有している金額と、交換したいという欲望の強度は相関する。それが貨幣の手柄です。その他にもいろいろ貨幣の機能はありますけれど、本質的には一つです。

だから、もし、貨幣を介在させないほうが早く交換が成立するなら、そこには貨幣の出番はないということになります。それが贈与と反対給付によって回る「コモンの経済」です。「あれ、ないかな」「あるよ。はい」「ありがとう」で話が済むなら、貨幣を稼いだり、かき集めたりする必要はない。

もちろん、こういうようなコモンの経済が成立するためにはいくつもの条件があります。コモンのメンバーが共同体を形成している必要がある。

凱風館がコモンとなり得るのは、それが道場共同体・教育共同体だからです。僕が師から伝えられた道統・学統を次世代に継承するために立ち上げた共同体です。第一章で述べたような「理解と共感に基づく共同体」ではけっしてありません。

先人からの贈り物を次世代に「パスする」ことが道場共同体・教育共同体の存在理由です。だから、ここではメンバー全員がパッサーとして自己形成することを求められています。

加盟の条件は一つだけです。「私はここで贈与されたものを次の人にパスします」という誓言をなすことだけです。それを誓約してくれたら、メンバーです。

ここには相互扶助それ自体を目的として加盟することはできません。合気道にも学塾にも興味はないけれど、仲間に入れてほしいという人は参加できません。僕たちが相互扶助的な共同体を構築しようとしているのは、それが成り立たないと「パス」が続かないからです。どんなことがあっても道統・学統を絶やさないために組織がある。その組織を維持するために相互扶助的にふるまわざるを得ない。

目的は道統・学統の継承であって、相互扶助はそのための手段です。「囲い込み」以前のイギリスの農村共同体が、農業技術や生活文化や伝統的な祭祀儀礼を守るために「コモン」の周りに結集していたのと同じことです。
目的は「集まること」ではなく「伝えること」です。その順逆を見落とすと、「コモンの再構築」は不可能だろうと思います。
----------------------
引用終わり。読みやすいように池谷が適当に改行しています。