そのお坊さんの方と、雑談して体験を聞いたメモ。
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ある時、衝動的に「あ!死ぬ!死んだらどうしよう?どうなる?」と恐怖感が迫ってくる事が学生の頃に何度もあった。
寺に生まれた。父親は在家から出家。祈祷寺をつくった。
自分はお坊さんになるつもりはなく、大阪大学で哲学を学ぶ。 大 当時の私は、経済や法律などは「人間が作ったルールを実在するかの様に見せて、お互いあれこれしてるだけ」と思って勉強する気になれなかった。 「真実」を学びたかった。
かといってやりたい仕事がなく「お坊さんになれば両親は助かるかな」と思い、出家して寺を次ぐことになった。
哲学を頭で学ぶと、どうしても観念的、ニヒルになりがちだ。 修行では座学だけでなく、掃除や参拝、作法などを通じて体を動かすことになる。 そうする事によって物事をポジティブに考えられるようになる。
そして、もっとも大切なのは拝むこと。
祈る事を継続し、深めていくことで、信心決定というか、すこーんと開くものがある。まさに、帰依。おまかせの状態になることがある。悦びに包まれる。
しかし、そこで完成かというと、そうではない。また、その状態から離れる。ハマっては離れ、またハマっては離れ。その繰り返し。
真言宗の大本山で修行させてもらった。そこの管長さんは、ほんとうに拝んでおられた。純粋に、一途に本尊を信仰しておられる。毎朝の護摩行は欠かしたことがない。また、側でついて、姿勢が一度たりとも崩れたことがない。まさに、ブレずに拝む方であった。
その管長さんの信仰のありようをいつも見ていて、この山は大丈夫と感じた。 お坊さんは、だれよりも深く信仰している人でなくてはならない。だれよりも、一途でなくてはならないと感じたのだった。