過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

こうして仕事をいろいろやってきた

大手の会社(12年間のサラリーマン)をやめて、「さてなにしようか」と思い悩んだ時期があった。37のときだ。

会社では、海外との貿易、ドイツとイギリスの生産手配、海外物流コストダウン、株主総会対策など、もういろいろやらせてもらえた。しかし、どれひとつ得意なものではない。会社の看板あってこその仕事。自分の看板で、食っていけない。

「何しようか、どうやって食っていくか」という目で見ると、いろいろな仕事があるものだ。若かったからね、可能性はいろいろあった。日本もバブルだったし。

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インドに旅しよう。三年くらい放浪だ。そしたら、なんとかなりそうだと思ったが、やはりやめた。なにしろアテもないし(結局インドには13回でかけたけど)。

旅した時、チベット仏教のカーギュ派のいちばんえらい人(あとで知ったけどダライ・ラマの養育係したカール・リンポチェだった)から、「いまここで出家しろ」と言われた。さすがに、即答できなかった。

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陶芸も面白そうだな。つてを通して聞いてみると、知り合いが紹介すると言う。なんと益子の浜田庄司の直弟子だ。人間国宝の島岡達三だった。ちゃんと給与もくれるという。でも、やはり自分には向いていないと思った。

職安で見ていたら、「歌舞伎座の小道具係」というのがあった。いつも歌舞伎の世界に触れられて、楽しそうだなあと思った。

塾の講師の応募をしたら、「先生の仕事より、妻が真珠の養殖の家なので、真珠の養殖と販売計画、そして都内の宝石店に販売していくという仕事やってみないか」と言われた。

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仏教の仕事でもないかなあ、と探していたら、「仏教カウンセリング」の仕事しないかと言われた。給与40万円という。すごいな。即採用された。けど、ちとアヤしいので行かなかった。あとでわかったけど、霊感商法の業者だった。

日蓮宗真言宗曹洞宗臨済宗のお坊さんから、「うちで出家しろ」と言われた。真言宗の大きなお寺さんは、ひとつお寺をあげてもいいといわれた。

大手の予備校が台湾で日本語の学校作るので、教師を募集し。応募したら採用された。三か月、日本語学習法と北京語を学んだ。しかし 、台湾に行く寸前、やめてしまった。その会社は、結局、台湾でトラブルあって挫折したみたい。

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結局、仏教と神道の編集、企画をする会社に入った。雑誌を作り、僧侶のための文例集を作り、空海の映画作りに関わり、学びのある一年だった。

それから、「神秘大学というのをつくりたいので、うちにこないか」と大きな出版社の社長に誘われれて移った。けど、すぐにやめた。

で、あれこれ彷徨しているうちに、ある真言宗のお寺から「うちの新聞を作ってくれ」といわれた。そして、ある大学の新聞作りの仕事もいただいた。学生連れてインドの南の島にボランティア活動にも出かけた。

やがて、食っていけなくなった。あるとき、スリランカのお坊さん(スマナサーラさん)と宗教評論家(ひろさちやさん)の対談を思いついて、実行してみた。ついには、麻原彰晃スマナサーラさんの対談まで企画して実行寸前まで行った。

そんなこんなで、医学書の仕事も頂いたり、あれこれと本の企画と編集をほそぼそとやってきた。仕事はフリーの編集者ということになった。お寺の本、坊さんの本、宗教者の本など作った。16万部も売れた本も企画したこともある。

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やがてここの山里に移る。9年前だ。無農薬で田んぼ(3千平米)もやってみた。大豆(千平米)もやった。なかなかむつかしい。やってみてはじめてわかること。できるんだけど、体力もたない、機械のメンテにすごく金がかかる。

こうしていろいろやってきた。しかし、どれも長続きしていない。こうして毎日、書き続けることだけは続いているけど。

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で、いよいよ明日から、デイサービスの事業の継承に乗り出す。こんどは、経営だ。

大手の会社(12年間のサラリーマン)をやめて、「さてなにしようか」と思い悩んだ時期があった。37のときだ。

「何しようか、どうやって食っていくか」という目で見ると、いろいろな仕事があるものだ。若かったからね、可能性はいろいろあった。日本もバブルだったし。
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インドに旅しよう。三年くらい放浪だ。そしたら、なんとかなりそうだと思ったが、やはりやめた。なにしろアテもないし(結局インドには13回でかけたけど)。

旅した時、チベット仏教のカーギュ派のいちばんえらい人(あとで知ったけどダライ・ラマの養育係したカール・リンポチェだった)から、「いまここで出家しろ」と言われた。さすがに、即答できなかった。
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陶芸も面白そうだな。つてを通して聞いてみると、知り合いが紹介すると行ってくれた。なんと益子の浜田庄司の直弟子だ。人間国宝の島岡達三だった。ちゃんと給与もくれるという。でも、やはり自分には向いていないと思った。

職安で見ていたら、「歌舞伎座の小道具係」というのがあった。いつも歌舞伎の世界に触れられて、楽しそうだなあと思った。

塾の講師の応募をしたら、「先生の仕事より、妻が真珠の養殖の家なので、真珠の養殖と販売計画、そして都内の宝石店に販売していくという仕事やってみないか」と言われた。
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仏教の仕事でもないかなあ、と探していたら、「仏教カウンセリング」の仕事しないかと言われた。給与40万円という。すごいな。即採用された。けど、ちとアヤしいので行かなかった。あとでわかったけど、霊感商法の業者だった。

日蓮宗真言宗曹洞宗臨済宗のお坊さんから、「うちで出家しろ」と言われた。真言宗の大きなお寺さんは、ひとつお寺をあげてもいいといわれた。

大手の予備校が台湾で日本語の学校作るので、教師を募集し。応募したら採用された。三か月、日本語学習法と北京語を学んだ。しかし 、台湾に行く寸前、やめてしまった。その会社は、結局、台湾でトラブルあって挫折したみたい。
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結局、仏教と神道の編集、企画をする会社に入った。雑誌を作り、墓参のための文例集を作り、空海の映画作りに関わり、学びのある一年だった。

それから、「神秘大学というのをつくりたいので、うちにこないか」と大きな出版社の社長に誘われれて移った。けど、すぐにやめた。

で、あれこれ彷徨しているうちに、ある真言宗のお寺から「うちの新聞を作ってくれ」といわれた。そして、ある大学の新聞作りの仕事もいただいた。学生連れてインドの南の島にボランティア活動にも出かけた。

やがて、食っていけなくなった。あるとき、スリランカのお坊さん(スマナサーラさん)と宗教評論家(ひろさちやさん)の対談を思いついて、実行してみた。ついには、麻原彰晃スマナサーラさんの対談まで企画して実行寸前まで行った。

そんなこんなで、医学書の仕事も頂いたり、あれこれと本の企画と編集をほそぼそとやってきた。仕事はフリーの編集者ということになった。お寺の本、坊さんの本、宗教者の本など作った。16万部も売れた本も企画したこともある。
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やがてここの山里に移る。9年前だ。無農薬で田んぼ(3千平米)もやってみた。大豆(千平米)もやった。なかなかむつかしい。やってみてはじめてわかること。できるんだけど、体力もたない、機械のメンテにすごく金がかかる。

こうしていろいろやってきた。しかし、どれも長続きしていない。こうして毎日、書き続けることだけは続いているけど。
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で、いよいよ明日から、デイサービスの事業の継承に乗り出す。こんどは、経営だ。

これは、まあベースとなる最後の仕事だと思う。山里には、仕事はないからね。こちらを拠点にして、仕事に集中することになる。さてさて。

これは、まあベースとなる最後の仕事だと思う。山里には、仕事はないからね。こちらを拠点にして、仕事に集中することになる。さてさて。