過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

出征して多く人は帰ってこなかった

出征して多く人は帰ってこなかった。家の大黒柱を奪われ、子を奪われ、夫を奪われた。

一銭五厘赤紙で召集され、戦地に送り込まれ、輸送船を撃沈され、餓死や病死となって祖国の山里に帰る人は少なかった。

実際に、だれのところに「召集令状」を出すかは、地元の役人の手に寄る。その仕事を担当している人は、ものすごく威張っていて、村人はへいこらしていたという。

知人の郷土史家の木下恒雄さんから聞いた。「どうしてあの役人は、たいしてえらくもないのに威張りかえっているんだろう。どうして、村人はみんな役人にはいつくばっているんだろう」と、子ども心に不思議に感じたという。そして、村の実力者の子どもは、村人に気づかれないようにひっそりと、遠くの地に引っ越させて、召集の事なきを得たという。

さて、これは井上ひさしさんの講演の一部。参考までに。
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次々に責任を、あの人たちに申しわけない。その人のところに行くと、この人たちに申しわけない。そこへ行くと今度は、死んだ人に申しわけがない。

死んだ人のところへ行くわけにいかないわけですね。それで、結局、責任がどこかへいなくなってしまうという論文(丸山眞男)を読んだときには、とてもよく納得できました。

それから、実は、「いちばん戦争に夢中になっていたのは、それぞれの町や村の有力者たちではなかったか」という説もそうです。在郷軍人会を中心とする町や村の有力者。

在郷軍人はもう戦争に行かなくてすむわけですが、本当にいばってるわけですね。僕はそれを小さなときの体験としてはっきり覚えています。

川で風を切って田舎の町を歩いている。そのまわりに神社の神主さんとか、お寺のお坊様とか、町内のちょっと大きな商店のご主人とか、町の有力者たちが大変戦争に熱中していたのではないかという、また別の論文「日本ファシズムの思想と運動」【丸山眞男集』第三巻」をーーこれもまた有名な論文を読んで、だんだんと小さい頃のよくわからなかったことが解明されていくわけです。
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「この人から受け継ぐもの」井上ひさし著より

(写真:春野町熊切にある出征兵士を送った壇)

閑静の賦
歓送迎台の由来

美しき山ふところに抱かれて生まれ育った熊切(くまきり)の若人達は、祖国存亡の危機が迫るや愛国の情に燃え、敢然として戦場に向かいたり。

吾が故郷の安寧と、受する家族の幸せを念じ、老いたる父や母を残し、妻子と涙の別れを告げて戦場に向かった若き出征兵士の胸中は如何ばかりか、案ずるに余りあり。

生きて再び故郷の土を踏むこと叶わぬを秘かに決意し、緑なす美しき故郷の峰々を仰ぎ見して清らかなる熊切川のせせらぎを聴きつつ此の壇上に立ちて出陣の決意を述べたる若人を想うとき、万感胸に迫りて声もなし。

昭和十三年、日中戦争の最中、若き青年達の奉仕と石工、志津重郎氏の手により、熊切村(くまきりむら)の支援を得て此の壇は造立されたり。

君死に給うこと勿(なか)れ、生きて再び故郷に還り給への願いを込めて此の壇は歓送迎台と名付けられたり。

悲しいかな、望郷の想いを抱きつつ異国の地に散華した熊切の若き出征兵士の故は二百三名にも及ぶ。痛恨の極みなり。

現代の繁栄と平和の礎は国を愛し、故郷を愛し、そして、こよなく家族を愛して戦場に散った若人の尊い命に依るものなり。

時は流れ、熊切の村が春野の町となり、浜松市となる。今は朽ちて崩れし歓送迎台なれど、故郷を愛し戦場に赴いた出征兵士達の足跡の残る尊い壇であることを終戦六十年の節目に当たりここに賦す。

閑かにして静かなる故郷の平和が永遠に続きますように、祈りを込めて此の碑を建つ。

平成十七年八月十五日 終戦記念日

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