公明党は、結党以来、生活を守る庶民の党として、平和と人権をアピールしてきた。公明党は、創価学会という強固な支持基盤を持つ組織政党である。そして、政権与党にあって、自民党の独走政治を支えている。
日本はアメリカの属国として、利益をアメリカに貢ぎ、世界にお金をばらまき、国内では貧富の格差は拡大し、平和憲法を変えて軍事国家にしていこうという流れがある。公明党はその流れに加担している。
公明党は、政権与党にあって権力に安住したいがために、自民党にすり寄って政権を支えている。
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公明党の力は、創価学会あってこそである。いわば「創価学会政治部」といえる。創価のすごさは、その数だ。会員数は一千万人を超える(公称)。実動会員は200〜300万ともいわれるが、選挙での公明党の得票数は800万票(2005年の衆院選では、898万票)。それにしてもすごい数ではないか。
小選挙区制になって、その動員力がいかされる。「選挙区は自民党、比例区は公明党」といった選挙協力で、創価の力が発揮されている。
小選挙区制においては、当落ギリギリでも勝てばよい。大勝しなくてもいい。この地区は勝てるとわかったら、それ以上の票の積み上げは必要ない。エネルギーは、別の地区の当落線上のところに向ければいい。
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それを可能にするには、正確な「票読み」と、投票活動を采配する指示系統がなくてはならない。創価には、それがある。
数字データを基にして、どこの地区が危ないとわかると、全国に呼びかける。すると「友人の友人の友人」ということで、その地区に全国から創価学会が訪ねて行っては、投票依頼活動をする。全国交流とよばれる。そういうことが、臨機応変にできるのは創価しかない。
創価の「票読み」はすごい。なぜか。日々の活動の積み上げがあるからだ。たとえば、座談会やら幹部会やら男子部だの壮年部だのと、毎日のように会合がある。その参加者数は、逐一報告され、全国で集計し分析される。
いざ選挙となると、それがフル回転だ。毎日、 F 票(フレンド)といって確実に投票してくれる人が報告される。細かなエリア別に分析される。
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そして、創価の力のすごさは「選挙の活動」ではなく、それが「信仰の活動」というところにある。
創価の信仰活動の柱は「信・行・学」である。
「信」は、日々の勤行(『法華経』の一部を朝晩よむ)とお題目(南無妙法蓮華経と唱える祈り)。「行」は、折伏(入信・入会させること)であり、座談会などの会合への出席。あるいは、聖教新聞の購読を勧めること。「学」は、教義を学ぶこと(日蓮の遺文、池田大作氏の教え)。
この「信・行・学」をきっちりやれば、過去世の罪業が消える。願いが叶う。幸せになる。そう教えられている。
これらの信仰活動が選挙に生かされる。選挙の活動ではない。信仰なのだから、これは強い。
創価本体は、一人ひとりに、給料や報酬を支払う必要はない。各自の旅費交通費など、すべて自分持ち。自らの信仰の発露として、自発的に信仰としての選挙活動をしているからだ。
その報酬は、功徳として現れるということになっている。あるいは、組織の幹部として認められていくという満足もある。もっとも、なかには、ノルマとして肩身が狭いからということで、動く人もいると思うが。
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ところで、創価学会政治部である公明党は、なぜ政界に進出したのか。
民衆の救済こそ宗教の使命である、大衆の声を政治に反映させるのだと言ってきた。しかし、その本質はなんだろうか。
それは「創価学会をまもるために、公明党は存在している」とみている。
そもそも、勢いのある宗教団体というものは、かならず国家権力によって迫害されてきた(なぜ迫害されるのかは、別の機会に)。
たとえば、大本などは、神殿がダイナマイトで破壊された。天理教の教祖は10数回にわたり、拘置所に入れられた。87歳になっても勾留された。創価も、言論出版妨害事件を機に、相当、批判された。
過去の世界の宗教の歴史は、そうなっている。しかし、やがては権力と妥協し、権力維持の装置となって安定してはらたくということになるのだが。
創価学会そのものである公明党が政権与党にいれば、創価学会は迫害されることはない。そこが大きな存在理由と思う。
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そして、結党に際しては、大きな宗教的な理由があった。
信仰する日蓮の教えこそが、王仏冥合(政治と宗教理念の合致)であり、国民の合意をもって、国立戒壇を作ること、万民が南無妙法蓮華経と唱えることが、究極の幸せであり、平和である。
そういう考えが基底部にあるのだ(現在、それは主張していないが、立党の精神にはある)。