過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

臨終の相について

死に顔と、生前の生き方について。

死を迎えるにあたって、それまでの生き方の一コマ一コマ人生が走馬灯のようにあらわれるのだろうか。

ああ、これでよかったと思える人は、安らかな死に顔になるのだろうか。ああ後悔ばかりだ、ざんねんだ、死んでも死にきれないという人は、苦しそうな醜い臨終の相となるのであろうか。わからない。

映画の「おくりびと」のモデルとなった青木新門さんのブログから。一部引用してみる。

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私が納棺の現場で、3000体の死者の死顔を見ているうちに気づいたことは、安心したような柔和な死顔があるかと思えば、目を背けたくなるような醜い死顔があることに気づいた。

生死一如の瞬間にほっとしたような安心の顔になる。

それが死体の硬直と共に変化して、すぐ醜い顔になる人といつまでも柔和な安心の顔が続く人がみられた。

柔和な安心の顔が続く人は死に抵抗しないで受容した人だと気づいた。

仏教など関心もなく、人は死んだら無だよなどと言っていた無見の人でも一瞬ほっとしたよう顔になる。

正定聚となって臨終を迎えた人は、弥陀の光明(仏性)に出遇って歓喜踊躍した証である和顔愛語の状態になるのに対して、仏教の知識もなくむしろ誹謗していた人などは、ほとんど気づかれないほどのほっとした顔になるだけだからすぐ消えてしまって、硬直の進行とともに、それまでの死に恐れおののいていた無残な顔に戻ってしまう。

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納棺の仕事を長くされてきた方であり、3,000体の死者の死顔をみているというところで、説得力がある。

けれども、「仏教の知識もなくむしろ誹謗していた人などは、(中略)硬直の進行とともに、それまでの死に恐れおののいていた無残な顔に戻ってしまう」とあるのは、どこまで事実なんだろうか。

仏教を信ずるとか信じないことと、臨終の相と関係があるものなんだろうか。