過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

仏教は「達成」ではなくて、「気づき」じゃないのかなあと思っていた

オウムの備忘録(3)

オウムの修行者だった知りあいが、何人かいる。かれらはみな、真面目で熱心。仕事を頼んでも、きちんと精緻にやってくれた。自分の体験、体感を深めていく手応えをたいせつにしていた。人を勧誘するなんていうことじゃなくて、ひたすら自分の修行に打ち込んでいるところに好感がもてた。

そんな知りあいから、麻原の講話の集いに招待された。面白そうだからと、いつもの調子で出かけた。会場は川崎市の市民会館だったかな。参加者は、二十代、三十代の信徒のひとたちがほとんど。開演の待ち時間、かれはら右手にカウンターを持って、カチカチならしていた。真面目な受験生が、一所懸命に英単語を記憶しているみたいだった。

ん?なんだろう? と見ていると、マントラを唱えているのだ。おそらく一日、何万回、何十万回と唱える行をしていたと思われた。五体投地を一日に、何百回、何千回と10日も20日も続けたという者もいた。結跏趺坐スタイルで、まったく横にならず何日も修行したという者もいた。それこそ千日回峰みたいな行を、それぞれが重ねていっている趣があった。

そこに、「達成主義」があると感じた。こういうことをすればこうなる、こういうマントラを唱え続けていけばこうなる。こういう瞑想をすればこうなる、と。

実際に、それだけの瞑想やマントラに集中していけば、ある種の能力が身につくのはたしかだろう。記憶力がよくなるとか、集中力がつくとか、あるいは他人の心が察知できるとか。さらには、自分の過去世がわかるとか。いわば「神通力」である。そうして、仏典には、そういうチカラが身についてくると書かれてある。

仏教にはそういう行法がたくさんある。たとえば、若き日の空海も、「虚空蔵菩薩の求聞持法」で、虚空蔵菩薩マントラを唱え続けて、経典の理解と記憶力を増進させたと述べている。

でもそこにフォーカスすると、他とは違う「特別なチカラ」を得ようという意欲がでてくる。そうしてオウムは、特別な力を獲得するための行として、いろいろなものが組み立てられていたと思う。次々と、神秘ステージを達成していくものとして。そうして、最終解脱というステージがあるというわけだ。

ここは、どうも違うなあと感じていた。仏教は「達成」ではなくて、「気づき」じゃないのかなあと思っていた。次々と、力を獲得していくあり方ではなくて、無駄な力が取れていく。落としていくあり方。そのあたりをぼくは、志向していたのだった。