過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

土台であるはずの原始仏教の教え、実践法が切り捨てられてしまっていること

オウムの備忘録(4)

オウムの事件のときに感じたのは、「日本仏教の無力さ」だった。あるオウムの信徒が、「お寺は景色でしかない」といっていたのが印象的だ。

やはり日本の仏教は、葬式仏教・檀家仏教で、檀家しか相手にしなかった。生きている人のための教えではなくて、死んだあとの供養の儀式がメインになってしまっていること。

瞑想法としての実践法を伝えられなくて、観念的なお説教や道徳みたいな世界にいること。自らの瞑想体験、信仰体験、修行体験をダイレクトに伝えられる僧侶が少ないこと。

そして、もうひとつ。そもそも日本の仏教は、奈良時代にいきなり大乗仏教から入ってきた。下地がないときに、いきなり三論や法相や華厳というような、高度で哲学的な教えが入ってきた。さらには、天台教学や密教が。ので、学問として、あるいは鎮護国家の教えとして、あるいは効き目のある呪術して伝わってきたこと。

土台であるはずの原始仏教の教え、実践法が切り捨てられてしまっていること。瞑想のワザ、技法として伝えられてこなかったこと。

そのあたりが、食い足りないものとして、若い人たちには感じられる。その意味では、いまチベット仏教テーラワーダ仏教に惹かれていく流れがあるように思う。