過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

死者のためのお経って、ある?

いまはお盆だ。お坊さんを日常見かける機会は少ないが、葬式と法事にはよく見かける。

多くの人のお坊さんのイメージは、「死者の鎮魂、先祖の供養という務めをする人」。そして、仏教とは「死者のためのもの」と。

でもね。もともと仏教って、そうなんだろうか。

お経は、死者に向かってよまれるもの。呪文のようで意味不明。漢文ばかりで難しい。そんなイメージだろう。

そもそもお経とは、ブッダが説いた教えを、教えを受けた弟子たちがブッダの滅後にまとめたものだ。いまでは膨大なお経がのこっているが、数百年にわたってみんなでつくり上げられたものだ。

難解で哲学的なものも多いけど、それらは呪文集でもなければ、死者のためのものでもない。

いろいろとお経をよんでみると、すくなくとも、死者の鎮魂のためのお経というものは、ひとつも見つからない(例外は、チベットの「死者の書」くらいか。あるいは中国で作られた偽経もあるが)。

お経というものは、ほんらいは、いま生きている人(とくに修行者)に向かって説かれたもの。自分が生きて行くうえでの糧となる教えなんだろうと思う。

ブッダは、「つねに心を浄めなさい。そのために、こういう修行をしなさい。それが苦を超える道だよ」ということを教えていた。

死者について語るとしたら「死者を見て、自分も死ぬということに気づきなさい」と言ったと思うが、死者の供養については述べておられないと思う。

自身が葬儀を営んだことはなかったし、弟子たちに「自分の葬儀は、おまえたちの仕事ではない。在家にまかせろ」と言っている。

まあしかし、お経はありがたいものなんだから、死者の鎮魂、先祖の供養の役に立っているんだ。これまでずっとそうしてきたんだから、いいじゃないか。つべこべ言いなさんな。──そういうことになっているのかなぁ。

お坊さんの袈裟衣、読経、線香のかおり……そういうものが、長い間の習慣になっているので、やっぱり葬儀や法事は仏教のものなんだなあと、肌合い的にしっくりは来るんだけどね。

写真はぼくが毎日読んでいるお経本。「法華厳」と名づけて、法華経華厳経をくっつけたもの。いろんな宗派のお経(神道祝詞も)をつなぎあわせてつくった。