過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

なにがあっても、起きても、それは日常であるというところで、ものごとにあたる

無課金おじさん

なにがあっても、起きても、それは日常であるというところで、ものごとにあたるというのが、いい。そうありたいと思っている。
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パリオリンピック終わったらしい。日本が金とか銀とか、いくつとったとか全く興味なし。
国を超えて、それぞれの生きざまの味わいを見ている。

開会式。重篤の病のセリーヌディオンはよかった。
アンチクリストの祭典みたいな、〝なんじゃこれは〟の演出はいただけなかったが。
日本のお家芸であった柔道が、つまらない。審判の意味不明なところで勝負が決まる。ストレスだなあ。

女子ボクシングも、これからの流れの象徴か。トランスジェンダー
こないだ男子生徒が9割の工業高校の図書館に行ったら、いちばん目立つところに、ジェンダー・フリーの書籍の棚があったっけ。
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まあ、いろいろあるけれど、一番印象的なのはトルコのエアガンのおじさん。射撃混合10メートルエアピストルで銀メダルを獲得。

耳や目に装備を着けず、片手をポケットに手を入れたままというカジュアルなスタイルで試合に臨んだ。このフツーな日常の感じのクールな感じの銃撃。これがもっとも印象的。
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話が跳ぶが、友人は奥さんが亡くなった時、「特別なセレモニーはしない。日常の出来事なんだから」として、自分で棺桶を作った。それはそれは美しい船であった。

いつも使用している軽自動車で棺桶を運んだ。坊さんなど呼ばないで、親族と友人だけの葬送。ぼくは、舎利礼文(しゃりらいもん)唱えた。

日常の神聖をたいせつにしたいもの。