過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

昭和の名曲、中島みゆきを聴いた。一緒に大声で歌った。元気になったよ

「うちの歌手で大ヒットしそうな曲を聞いてもらいます。きみたちこの歌はどれくら売れると思いますか」
ヤマハ音楽振興会の人が聞いた。ヤマハに就職した新人たちの研修のときだ。曲は中島みゆきの「悪女」と「わかれうた」。みな100万枚以上は売れたのだった。
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次に、ジュニアオリジナルコンサート(JOC)の映像を見せた。コンサート会場で、客が思いつきでメロディーを適当に弾く。すると、15歳以下の子どもたちが、即興でエレクトーンで曲を演奏する。
伴奏もリズムもつけて見事に曲になっていた。グラミー賞を受賞したジャズピアニストの上原ひろみは、こうした基礎を学んで才能が開いていったのだろう。
暗くしていた会場が明るくなった。すると、突然、うしろからツカツカと壇上にあらわれた人物がいた。
挨拶なんてなしだ。前置きもなし。いきなりトップギア
「音楽振興会はけしからん。ジュニアオリジナルコンサートのこんな映像をわしに見せてない。こういう子供の才能を開かせる事業がヤマハなんだ。わかったか。それじゃあね」
そう言うと、スタスタと帰っていった。みなに呆気にとられた。
それがヤマハのワンマン、川上源一会長であった。
ヤマハをリードしていた川上源一は「足元の明るいうちにグッド・バイ」という名言を残して60歳で一線を引いていた。マスコミからはカッコいいと称賛された。
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川上源一が指名したのは、当時38歳の河島 博だった。本田技研の社長の弟だ。しかし、ワンポイントリリーフのつもりの川島が勢力を拡大しそうなのが気に食わなかったんだろうか。
川上源一は、川島社長がアメリカ出張の時、緊急取締役を開く。
「彼は社長としてふさわしくない。解任してはどうか」と提案。取締役たちは、イエスマンだから誰も反対しない。それで、突然の社長の解任。河島 博は、ダイエー副社長、副会長にスカウトされる。
ともあれ川上源一が返り咲きして、やがて息子を社長をする。息子の家庭教師だった人を副社長に据える。
やがて、労働組合から、「社長としてふさわしくない」と辞任をつきつけられる。息子は「好きで社長になりたかったわけじゃない」と迷言をのこして引退してしまう。
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ともあれ当時は、私はカッコよくて大きな会社に入ればいいと思っていた。なので、無謀にも、三井物産、松下、ソニー朝日新聞など、まったく脈絡なしだ。
いずれも不採用。されで、ヤマハ浜松市の地元企業で、安定した有名企業でカッコいいと思っていた。それで、ここに就職したいとした。
履歴書に尊敬する人物に「今東光」と書いていたので、川島社長から「どうしてなんだね?」と聞かれたことを覚えている。採用してくれた。
が、配属先は、あこがれていた音楽部門ではなくて、住宅設備機器の部署。ボイラー、風呂、キッチンやドアなどのルート営業。しかも、広島営業所で、担当エリアは呉市とか島根とか鳥取
当時は、東京がすばらしいと思っていたので、「こんな田舎で‥‥」と凹んだものだった。しかし、いま思うと歴史の深い山陰地方で日本海を眺めて、温泉に入って、宝の山にいたのであった。ヤマハには、ほとんど役に立たないこんな私を、よく我慢して使ってくれたものだと感謝しかない。
やがて大きな事故が遭ったり(つま恋で、爆破して多くの死者)とか、社長の解任とか、社内はゴタゴタしていた。それもあって、たったの二年半で転職してしまった。
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朝、中島みゆきの歌を朝、熱唱していたら、サラリーマン時代のことを思い出したよ。
しかし、中島みゆきって、すごいなあ。
ヤマハの同期のSくんは、中島みゆき著作権を管理する会社の社長になった。年に一回、中島みゆきが来社して、彼女に報告するってのが仕事だったという。うらやましいことよ。
中島みゆきを世に出したのはヤマハである。川上源一であった。だが、川上源一の亡くなった時、通夜の時、中島みゆきがはるばる弔問に来たのだが、密葬のためと線香もあげさせなかったとも聞いた。
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朝、昭和の名曲、中島みゆき吉田拓郎井上陽水長渕剛松山千春かぐやひめ、を聴いた。一緒に大声で歌った。元気になったよ。