過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

市民立中高一貫校という考え方がある。ん? 市民立って?

あかりが通いだした「つらぬき楽園」。月水金と通う。今日も行く。「楽しいのでいきたい」という。往復2時間かかるのが難点。ま、その間、おとうちゃんはヨーガと瞑想しているので体調管理にはいいんだけど、仕事は止まるよ。

ところで楽園ではいま、利用している公民館以外にも新しい居場所をさがしているところ。ぼくは、そこをサポートしようとしている。

そこは市民立中高一貫校という考え方がある。ん? 市民立って?

ポリシーのところで、こちらと考えが違うとうまくいかないので、自分なりにまとめてみた。ちょっと長いよ。
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市立、県立、国立の学校、あるいは文科省認定の学校となると、行政が関与する。
(参考:画稿教育法 第一条 この法律で、学校とは、幼稚園、小学校、中学校、義務教育学校、高等学校、中等教育学校、特別支援学校、大学及び高等専門学校とする。)

基準の認証とか実地指導とか報告書とか、ものすごい書類、事務処理が必要になってくる。いわゆる認可されたオルタナティブスクールとなると、そのために人件費がかかるし、設備そのものに費用がかかる。

無認可校となると、行政の補助がないので、人件費や設備維持費のためたに、通学料が高くなる。そうなると、経済的に余裕のある子しか通えなくなる。なにより、学びのありようが文科省指導要領に沿うという方向になってしまう。そこがネックかなあ。

いまの学校教育は、勤勉で忍耐強く正確な仕事をする集団づくりには適している。製造ラインの工場ではたらく人のような。
明治以降、愛国心のある国に忠誠を尽くして死んでいける(逆に言うと人を殺せる)、真面目で熱心な兵隊のような人間作りの精神が底流にある。
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そうして、覇権国家としてアジアに侵略して、朝鮮、満州、東南アジアの地域を奪い取ってきた。しかし、その大東亜戦争で徹底的に日本は破壊された。無条件降伏したのだった。

それで、連合国の代表であるアメリカが日本を支配するようになった。
その支配のシステムのひとつが教育だ。といっても自由で自立心のある人間の養成ではない。日本が二度とアメリカに歯向かわないようにするためのもの。アメリカに依存させるためのものである。なので、「これまでの日本はダメだった」という自虐史観の教育となる。そして、なんでもアメリカはすごいという教育だ。

戦後は、「コメをたべるとバカになる。パンがいい」「育児は母乳はダメで粉ミルクがいい」と言われた。母子手帳GHQがつくった。「なんでもアメリカがすごい」という教育だ。TV番組もほとんどがアメリカの番組の吹き替えだった。

それでも、戦後の動乱の中、独創性のある技術者やリーダー(ソニー、ホンダ、松下など)が輩出した。勤勉で働きすぎと言われるほど働いて日本は豊かになった。GNP大国となった。アメリカの経済誌『Fortune(フォーチュン)』が発表した世界企業番付の50社に日本企業が8割がランクインした(いまはトヨタのみで、13位)。世界の大金持ち、日本となった。アメリカのロックフェラービルさえも買おうとした。

で、企業は、有能な社員をとりたい。統計的にやはり東大、一橋、早慶みたいな一流企業のシグナルを基準にした。どんな勉強をしてきたかというのは、面接ではほとんど問われない。その大学を出ていれば採用するというところだ。

出口がそうなんだから、偏差値による教育価値観となる。大学とか高校に優劣が生まれる。学ぶのは、成績が他よりも優れたいことが動機となる。ちゃんと勉強していい成績を取ればいい高校に行ける。そしたら、いい大学に行ける。そしたら、一流企業に行ける、と。そのトップは、東大の法学部で、大蔵省に入れば最高みたいな価値観だと思う。民間ならば、三菱商事だの、三井物産東京海上みたいなところが評価された。
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市民立っていうのは、そもそもそういう価値観に立っていない。
「いい会社に入って真面目に働いていれば幸せな人生」とは考えていない。

そうしたサラリーマンというのは、所詮は「奴隷脳」であり、自分でリスクを背負って自分で生きていくという起業家精神を養成できない。かえって、子どもの創造性をうばい、「みんながするから自分もする」という同調的な生き方になってしまう。

日本は明治維新から富国強兵策で、世界の大国を相手に戦って勝つ(日清戦争日露戦争)まで力をつけた。そして、敗戦の焼け野原から戦後に急速に復興したのは、有能な社員が一丸となって働いたことにあろう。終身雇用や年功序列制度という特殊な日本的な経営がうまくいった。
また背景に朝鮮戦争ベトナム戦争の特需、そしてベビーブームなどがうまく作用したように思う。

けれども、この30年間の日本の大停滞、コロナ禍による大停滞などに象徴されるように、もはや「いい会社」に入って真面目に生きるということは、脆いもので、けっしてしあわせな人生ではない、意味がなくなってきているのではなかろうか。

むしろ、どんなことがあってもサバイバルできる心と技を持った人間が望まれる。自分で考え、自分でリスクを取り、自分で発想して行動するという人間だ。そうした「起業家」を育てる教育こそが大切な時代となっている。
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いまの学校教育は、時代に合っていない。それは、不登校児が20万人を超えるという数字が表している。コロナ禍という背景もあるが、その不登校の増加率が年率25%あるるという現実。

そもそもいまの一斉授業の教育は、同調主義、他人と比べて優秀を競うという偏差値主義になる。それは子どもにはかえって有害なのではないか。

飛び級がないので、成績の優秀の子は、先に進めない。勉強ができると、自分はすごいと思ってしまう。逆に、成績のよくない子は、自己肯定感が低くなる。他に優れている分野をもっているのに、自己卑下して潰れてしまう。

なにしろ子どもの集中力はすごいのだ。好きなことにハマればフロー状態になる。どんどんと進化する。好きなことを仕事にできれば、力が発揮される。好きなことなんだから、疲れない。努力の必要のないことになる。

そのためには、とにかく遊ばせる。遊びの中で自然と学びの力が芽生えてくる。ヘタに大人が介在しない。「自ら考え、学び、生き抜く力」を養う。それが市民立中高一貫校ということになるのだろうか。

不登校支援を主たる目的とはしておらず、結果的に不登校支援になりうる場ってところか。