過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

冬の間は、インドやバリに暮らして、春に戻ってきて秋までいるという計画は全く実現できず

春野町に移住することになったきっかけは、西インドの旅であった。

この山里に移住して、もう12年になる。
東京暮らし40年。どうして春野町に暮らすことになったのか。ふりかえってみた。
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フリーランス医学書の編集などをしていたので、一つ仕事が終わればインドに出かけていた。あるとき、西インドのラジャスターン州にあるプシュカルというヒンドゥー教の聖地を訪ねた。

プシュカールとは「青い蓮」という意味。
沐浴する大きな湖がある。すぐ近くに大きな木があって葉が茂っている。なにしろ砂漠が近くで暑いので、人々は木陰で涼をとる。そこには、巡礼者、サドゥ、旅人、動物たちが昼寝をしたりお喋りをする。
近くにレストランがあって、のんびりくつろいでいた。猛烈に暑いときで、ガスのライターが爆発した。突然の爆発音と飛散するプラスチック。ちょうどOSHOの本を読んでいて、それがフェイスガードになって助かった。
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そこで出会ったのが、松島さんという方。50代で髭を生やして背は高い、旅慣れた雰囲気がした。若いときにマグロの遠洋漁船に乗って船員のための料理をしていた。

遠洋漁業なので、主要な港町に停泊する。ヨーロッパの港町などにも寄った。パリにも行った。レゲエの神様、ボブ・マーレイや、ジャズのビル・エバンスのライブにも接したことがあるという。

松島さんは磐田市に暮らしていた。仕事はタイでジャズやクラシック、ロックなどの海賊版の海外のカセットテープや光ディスクを仕入れて、浜松の駅の近くの道で販売していた。熱心な固定客がいるので、それで生計が成り立つという。

インドから帰国して、松島さんを訪ねた。
露天商の仲間で、春野町という山里に暮らしている友人がいる。その人は、骨董品をイランやインドに買い付けに行っては販売しているという。それはおもしろい。会ってみたい。ということで、一緒に訪ねた。

あいにく留守であったが、春野町っていいところだなあと思った。
浜松市に高校まで暮らしていたが、春野町という名前はまったく聞いたことがなかった。浜松市に合併する前だから、周智郡春野町といった。
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仕事はフリーでいいのだから、いっそのこと田舎に暮らそう。冬の間は、インドやバリに暮らして、春に戻ってきて秋までいる。そういう暮らしがいい。

なにしろ、東京は家賃が高すぎる。このまま年取ったら大変なことになる。家を買うと言っても、3DKのマンションで3千万円も5千万円もした。とても買えるはずがないし。
 
田舎なら古屋が安いだろうから探してみよう。ということで、八ヶ岳の麓、安曇野、房総、西伊豆などを探した。しかし、とても高くて買えるはずがない。

そんなとき、「そうだ、春野町がいいんじゃなかろうか」とひらめいたのだ。

それが13年前の8月31日。そして、9月10と11日の2日間かけて、春野町の古民家、11軒を見て回った。その一軒目を買うことになった。広さはなんと1,700坪。農地もあるので農家資格も取らなくちゃいけない、仮登記の申請もしなくちゃいけない、農地法の申請もあるとか、いろいろ手間がかかったものの、翌年の2月に移住することになった。
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こうしてみると、西インドの旅がきっかけで、田舎暮らしがはじまった。春野に移住することになったわけだ。

そもそもの、冬の間は、インドやバリに暮らして、春に戻ってきて秋までいるという計画は全く実現できず。
田舎に暮らしてみると、いろいろおもしろくて、あれやこれやイベントを企画したり、子どもが生まれたり、デイサービスを経営したり。そしてこの3年間のコロナで封印された。もうとてもじゃないけど、インドの旅などできそうにない。歳とって元気もなくなった。

人生、出会いによって変わっていく。なにがどうなるのか、先のことはわからない。死ぬ時が来たら死ぬんだから、死ぬときまで踊るような日々を過ごしていくってことだろうなあ。