過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

十分に上手に表現された怒りは、調和と両立するという道が

ひとりで暮らしている分には、だいたい人に出会わないので、「怒り」が出てくるということは、そんなにない。

家庭をもつと、それはやはり「思うようにならない」ことばかり。その人ならではの美学や思い入れがあるから、そのあたりはぶつかる。

ものの言い方、言われ方、ムッとして言い返す、その応酬になったりする。人生と怒りというのは、大きなテーマ。

怒りを発してうまくいくことは、ほとんどないからね。あとの残務処理で数倍、数百倍のエネルギーが費やされる。

なるたけ「怒らないようにする」ことがたいせつ。そういう境地でありたい。

とはいうものの、怒りは抑えられない。現実の世界に生きているということは、気づき、アウェアネスの実践のいい機会。なんだけど、そこがまた難しいわけだ。

平和的に、愛情あふれるやり方で、怒りを表現する方法があるのかもしれない。充分に上手に表現された怒りは、調和と両立するという道が。気分転換に読んでいるニールの本「新しき啓示」。以下、引用する。
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あなたは暴力と怒りをいっしょくたにしている。同じものだと言っているように聞こえるよ。怒りと暴力は同じものではないし、混同してはいけない。

怒りは自然な感情だ。ときには、怒りはとても自然なものだ。まったく差し支えないものでもある。つまり、あなたがたがほんとうに仲よく暮らしたいのなら、怒りは有効に機能する。

──何ですって?わからないなあ。わたしの体験では、怒りっていつも困ったものでしたよ。

それは、あなたが平和的に、愛情あふれるやり方で、怒りを表現する方法を知らなかったからだよ。

愛とともに表現されれば、怒りは不和を生み出すのではなく、解消する。

──はじめて聞きました。そんなふうに考えたことはありませんでしたよ。

怒りとは、本来そうあるべきものだ。システムに組みこまれている人間の一部だ。圧力抜きのバルブ、否定的なエネルギーを発散する弁だよ。あなたがたが困ったことになるのは、否定的なエネルギーを発散するからではなく、発散しそこなうからだ。

あなたがたの不安のもとは、怒りの表現ではなく、表現のしかただ。物理的暴力であろうが、言葉の暴力であろうが、暴力とはいっさいかかわりなしに怒りを発散する方法はたくさんある。そういう怒りの発散のしかたを知っているというのは、成熟のしるしだ。

──どうすればいいんですか?

方法はたくさんあるし、いまでは教えてくれるひとはおおぜいいるよ。怒りの処理を学ぶクラスに入るひともいる。瞑想を学ぶひともいる。それから、自分とは何者かということを決意しなおして、それで怒りの表現方法を選び直すひともいる。

愛のある怒りの表現方法を本気で学ぼうと思えば、学ぶ場所はいくらでもあるよ。ここでは、怒りは否定的な感情ではない、怒りは癒し手だということを理解しておきなさい。

怒りは否定的なエネルギーを発散させる。それによって肯定的な感情になる。自分がもっていたくないものを捨てて、調和的に生きる助けになるからね。

怒りと調和は両立する。充分に表現された怒り、驚くほど癒す力をもった怒りは、驚くほど上手に表現された怒りであり、人間と人間の瞬間を豊かにしてくれる。それは、ほんものであり真実だからで、これほど偉大な癒し手はないし、これほどの調和への近道もない。

ただし、上手に表現されなかった怒り、言葉の暴力と物理的な暴力を通じて表現された怒りは、癒すどころか、傷を負わせる。傷害で傷を癒すことはできないよ。いくら努力してもね。
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「新しき啓示」(ニール・ドナルド・ウォルシュ著 サンマーク出版)から