過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

太宰治の「たずねびと」という短編

戦争中の文学をいろいろ読んでいた。野坂昭如の「火垂るの墓」、高橋和巳の旋盤工の徴用工の体験、井伏鱒二池波正太郎の体験など。

太宰治の「たずねびと」という短編があった。さすがに太宰は、すらすらと読みやすい、おもしろい。

ほんとうに戦後は食糧難。餓死者が続出の時代。太宰も幼い子を連れて青森に帰る。たいへんな旅だ。いわば難民生活。お父さんもお母さんも、子どもたちもたいへんだったろうな。

以下、一部引用。全部読みたい人は、「青空文庫」で検索するといい。
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 昭和二十年、七月の末に、私たち家族四人は上野から汽車に乗りました。私たちは東京で罹災してそれから甲府へ避難して、その甲府でまた丸焼けになって、それでも戦争はまだまだ続くというし、どうせ死ぬのならば、故郷で死んだほうがめんどうが無くてよいと思い、私は妻と五歳の女の子と二歳の男の子を連れて甲府を出発し、その日のうちに上野から青森に向う急行列車に乗り込むつもりであったのですが、空襲警報なんかが出て、上野駅に充満していた数千の旅客たちが殺気立ち、幼い子供を連れている私たちは、はねとばされ蹴けたおされるような、ひどいめに逢い、とてもその急行列車には乗り込めず、とうとうその日は、上野駅の改札口の傍で、ごろ寝という事になりました。

その夜は、凄い月夜でした。夜ふけてから私はひとりで外へ出て見ました。このあたりも、まず、あらかた焼かれていました。私は上野公園の石段を登り、南洲の銅像のところから浅草のほうを眺めました。湖水の底の水草のむらがりを見る思いでした。

これが東京の見おさめだ、十五年前に本郷の学校へはいって以来、ずっと私を育ててくれた東京というまちの見おさめなのだ、と思ったら、さすがに平静な気持では居られませんでした。
(中略)
この下の子は、母体の栄養不良のために生れた時から弱く小さく、また母乳不足のためにその後の発育も思わしくなくて、ただもう生きて動いているだけという感じで、また上の五歳の女の子は、からだは割合丈夫でしたが、甲府で罹災する少し前から結膜炎を患わずらい、空襲当時はまったく眼が見えなくなって、私はそれを背負って焔ほのおの雨の下を逃げまわり、焼け残った病院を捜して手当を受け、三週間ほど甲府でまごまごして、やっとこの子の眼があいたので、私たちもこの子を連れて甲府を出発する事が出来たというわけなのでした。
(中略)
 ああ、人間は、ものを食べなければ生きて居られないとは、何という不体裁な事でしょう。
「おい、戦争がもっと苛烈になって来て、にぎりめし一つを奪い合いしなければ生きてゆけないようになったら、おれはもう、生きるのをやめるよ。にぎりめし争奪戦参加の権利は放棄するつもりだからね。気の毒だが、お前もその時には子供と一緒に死ぬる覚悟をきめるんだね。それがもう、いまでは、おれの唯一の、せめてものプライドなんだから。」とかねて妻に向って宣言していたのですが、「その時」がいま来たように思われました。
(中略)
ええ、もう、この下の子は、餓死にきまった。自分も三十七まで生きて来たばかりに、いろいろの苦労をなめるわい、思えば、つまらねえ三十七年間であった、などとそれこそ思いが愚かしく千々に乱れ、上の女の子に桃の皮をむいてやったりしているうちに、そろそろ下の男の子が眼をさまし、むずかり出しました。
「何も、もう無いんだろう。」
「ええ。」
「蒸しパンでもあるといいんだがなあ。」
 その私の絶望の声に応ずるが如く、「蒸しパンなら、あの、わたくし、……」
 という不思議な囁ささやきが天そらから聞えました。
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(「たずねびと」太宰治著)より