過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

アメリカの軍事は、憲法のラチ外というよりも憲法の上にあるようなもの

日本国憲法の大きな柱であり特徴は「絶対平和主義」だ。戦争をしない。陸海空軍という戦力を持たないのだ。憲法第九条に定められている。

この条項のできた背景は、敗戦にある。日本は大平洋戦争を行い、大陸や南方に進出したが、大敗北して無条件降伏した。アメリカを中心とする連合国は、二度と日本が戦争を起こさせないように、憲法に縛りつけたのである。

しかし、やがて世界に共産主義がひろまってきた。隣国の中国は社会主義国家となった。北朝鮮にも。このままでは、ドミノ倒しのようにアジアに共産主義が蔓延する。資本主義に対する大きな脅威だ。やがて日本も共産主義になるかもしれない。

そのことを恐れたアメリカは、対日政策を根本から変える。平和主義の日本から「共産主義の防波堤」へと。そして、日本に軍事基地をおいて、そこからアジアを監視する。一朝、事あれば日本の軍事基地を拠点にして戦争を行う。密約で核兵器も持ち込んだ。

憲法に戦力不保持と定めたにも関わらず、戦力を持つ自衛隊を創設させた。その航空自衛隊を指導したのは、東京大空襲で3万人余の市民を虐殺したルメイ少将などである。かれはその功績で、勲章(勲一等旭日大綬章)を授与されている。

アメリカは、民主主義、信教の自由、農地解放、財閥解体、学校給食、産業の育成と、日本の民主化政策を矢継ぎばやに行っていった。日本人は、アメリカの先進技術、豊富な物量、自由でオープンな考え方、映画に音楽、野球などの娯楽、ファッションに魅了された。アメリカはすごい、資本主義はすごい。アメリカは一番だと心底思いこむ。

基地があって日本を守ってくれて安心だ。自前の国防費はたいして必要ない。それを、産業の育成にあてられる。ありがたいことだ。こうして、身も心もアメリカに支配下あって安住した暮らしがつづいてきた。

三権分立など、絵に描いた餅となる。日本の為政者も、アメリカの支配下にあり、ご機嫌伺いしながら政治をおこなう。アメリカの意向に逆らったら、その立場を追われることになるからだ。

司法もそうだ。アメリカの意向に沿った判決を下すことになる。

日米安保条約や軍事基地、自衛隊など、戦力を持たないという憲法第九条に違反していることは明瞭だ。しかし、最高裁は、それを憲法違反とはみなさない。「外国の軍隊は戦力にあたらない」「アメリカ軍の駐留は憲法及び前文の趣旨に反しない」と判決を下す(砂川訴訟)。

アメリカの意向を「忖度」したというレベルではなく、アメリカが政治工作をしてそのように判決を書かせている。マッカーサー駐日大使が、藤山外務大臣に指示し、さらには最高裁の田中耕太郎長官とやりとりしている。(アメリカ公開の機密文書による)

そうして、ここがたいせつである。「日米安全保障条約のように高度な政治性をもつ条約については、一見してきわめて明白に違憲無効と認められない限り、その内容について違憲かどうかの法的判断を下すことはできない」(砂川訴訟)と最高裁の判決に示した。

「高度な政治性をもつ条約については、憲法判断をしない」と。そもそも最高裁の本質的な仕事は、憲法判断することにある。それを放棄してしまっている。こうして、日米安全保障条約というものは、憲法違反かどうか、審査されることなく、つづいているのだ。アメリカの軍事は、憲法のラチ外というよりも憲法の上にあるようなものだ。

つねにアメリカの顔色を見て行動する、アメリカに依存するという国が日本なのだと思う。自分の責任で、自分リスクで、自分の考えで行動できない国。すなわち、日本はいまだに独立できていない。そこが政治の暮らしのいちばんの大きな問題。これまでそれできたし、このままでいいのか。いや、なんとかしないといけないのか、考えていきたい。