「看とりとおくり」のシンポウム企画の中で、出てくれる牧師さんを探している。そこで昨日は、また別のクリスチャンに話を聞いた。
牧師が参加してくれるかというと、これが難しそう。教会を、あるいはキリスト教を代表して語るということになるので、個人の判断では、出てこれない。長老会の決議がいる。語るにしても個人的な見解は語れない。
そもそもキリスト教は、生きるための教えである。なので、葬儀がどうの看とりがどうのということは、本質から外れる。本質としての教え、すなわち唯一絶対の神の恩寵のもとで生きる、という話をすると、いきおい他の宗派の人と対立してしまう。そうして、対立は避けたいところである。
そうはいっても、せっかく市の文化事業として行うのだから、福音を伝える絶好の機会になる。心ある牧師さんなら、勇んでくる場だと思う。そう伝えた。
いや、求める人には、静かに伝えたい。人前でラッパを吹くようなことをするなというイエスの言葉がある。そうも言われた。
ところで、キリスト教には、先祖供養の祈りみたいなことはないのか、と聞く。宗教は生きるための教えであり、死者のためのものではない。そもそも墓には先祖はいない。死んだひとが祟るというようなこともない。神に召されて天国にいるのだ、と。
じゃあ、祈りを捧げるというのはどういうことかと聞くと、わたしたちが祈るのは、亡き人のために祈るではない。生きてい人たちが、悪霊に束縛から離れるように祈るのだという。なるほど。
しかし、天国に行けなかった先祖がいるかもしれない。そういう先祖については、どうするのだと聞くと、そういうことは考えたことはなかったと言う。
こうして、「看とりとおくり」について、いろいろな宗教の人に聞いていくと、その本質がみえてくるようでとてもおもしろい。