過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

日本の仏教の本質は、先祖供養だと思う

日本の仏教の本質は、先祖供養だと思う。だが、ほんらいの仏教には、それはない。

仏教はあくまでも、生きている人のための教え。悩み苦しみを超えるための教えである。すなわち、ブッダ(目覚めた人)の教え。目覚めるとは、真理に目覚めること。真理とは無常であり、いまこここに徹するということではないかと思っている。

なので、仏教は、死者のことにはかかわらない。葬式などにかかわるなとブッダは弟子に伝えている。インドの伝統的な考えでは、生が尽きれば肉体を離れる。そうして、またつぎの生を受ける。これをえんえんと繰り返す。すなわち「輪廻」である。

ブッダは、生死生死を繰り返す輪廻こそが「苦」であるとした。修行の目的は、この輪廻から脱却することにあった。そして、悟り、輪廻を超えた。それが「解脱」。生死の轍(わだち)から、脱したのである。

それが、原始仏教の考えだと思う。その仏教が中国に渡って、「鎮護(ちんご)国家」の教えとして受け入れられた。仏教は個人の救済よりも、国を安んずる、国に災いをもたらさないところの効き目ある教え、と。

その考えが日本にもやってきて、奈良仏教となる。聖武天皇の建てた東大寺の大仏は、ホストコンピュータである。地方の国分寺は端末。盧舎那仏(るしゃなぶつ=無限に光り輝くブッダ)の威神力において、国をまもろう、安んじようとした。

そうしたなかで出てきたのが、最澄であり空海である。それらの軸はやはり、鎮護国家になっている。その手法は、祈りであり加持祈祷がメインである。

やがて鎌倉時代になって、法然親鸞日蓮道元という思想家が現れる。かれらは、鎮護国家の教えではなく、個人の救済、自らの救いを目的とした教えを広めた。(日蓮には、鎮護国家の考えが強いが)。

けれども、徳川幕府は、キリスト教の広まりを断つために、檀家制度を作り上げた。僧侶に檀家の葬儀を行うように命じた。それが300年もつづけば、風土として定着する。そこから、葬式仏教のながれがある。

こうして仏教の中身は、先祖供養が本質になっていった。葬式仏教のいまがあるわけだ。しかし、先祖供養ってなんだろう。仏教で先祖供養が可能なんだろうか、そこをこれからみていきたい。