過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

一体となる

脱穀機にエンジンを取り付けた。さびたビスをスパナで締めた。切れない包丁を砥石で磨いた。よごれた玄関を竹箒で履いた。ひとつひとつの動作、行為に心を入れてみる▲具体的になにかやっているとき、そのものと「一体になる」ということを、見はじめている▲「一体となる」ということを心のなかに据えて、生き方の羅針盤にしてみようか、というところ。

よく「宇宙と一体になる」などという人がいるが、宇宙といったって、ここを離れて別のところにあるのではない。いままさに、ここでやっていることこそが宇宙だろう▲日常の暮らしの中で、実際の行為のなかで、自分というものが、いまやっていることと「一体になる」のだ。

自分がやっているんだから、そんなことあたりまえじゃないか、と思うかもしれない。でも、じつは一体になってないことが多いのだ▲心ここにあらずで、やっていることと頭のなかがバラバラ。気もそぞろ。心が入ってないことが、よくある。かなり多い。いや、ほとんどそうかもしれない。

機械を直している時、ビスをスパナで止める。スパナとビスと締めている動作が一体になる。スパナの動きに心が入っている。包丁を研ぐ。研いでいることとひとつになる。包丁、砥石、研いでいる動作が一体になる。包丁の動きに、心が入っている。コーヒを飲む。コップとコーヒーと自分が一体となる。コーヒーの味わいに心が入っている。

そうしたことを少しずつ心がけてみると、わかる。いかにそれまで、一体になっていないか。やっていることと頭のなかがバラバラであったか、が▲生きているというのは、まさに瞬間瞬間のことだが。その瞬間やっていることと一体であること。行為に心が入ること。それが集中ということであり、丁寧に生きるということであり、切に生きるということになるだろうか。