過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

「一処不住」の村上光照師の聞き語り①

澤木老師のお弟子さん、「一処不住」の村上光照師の聞き語り①──────おやじが戦死して、ぼくは母一人で育てられた。とことん金がなかった。大学では、山岳部に入って剛力のアルバイトをよくやったよ。着るものといったって学生服しかない。その学生服のまま重い荷物を担いで、よく山に登ったもんだ。おかげで体が鍛えられたよ。▲大学では物理学を学んだ。学問として物理学はおもしろいものだった。でも、ほんとうの生き方ってなんだろ、そのことをずっとを求めていた。▲世渡りのこと、身過ぎ世過ぎのことなど、一度も考えたことはなかった。

坐禅に出会ったのは、大学二年の時だった。▲ある日、坐禅していると、心境がスーっと澄んでね。まことに静かな世界になった。▲あらゆる生きものの苦しみや痛みが、わがごとのように感じられたんだ。なんというか、まるで〝いのち〟からしみ出てくるように感じられてきた。▲それから、難解なことで有名な禅語録の『碧巌録』を読むと、おもしろい、おもしろい。手にとるように、わかりだした。「なるほど。禅とはこういうものか」と思ったものだ。▲ところが、後に澤木興道老師に会うと、そんなものは「小悟の世界」ということを知った。

ほんものの悟りとは、そんなものではない。池の水が澄みきってすべてを映すように、如来の光が宿って、その働きでものが考えられ、自然と体が動かされる。▲それが、大乗の悟りだ。そのことは、道元禅師が教えられたことだ。そのことを、澤木老師によって知ったんだ。▲当時、澤木老師は京都で接心をされていた。「ほんとうの仏道を、とことん究めたい」と、老師のおられる京都に行こうと思い、名古屋大学から京都大学の大学院に行った。▲大学院では、湯川秀樹博士のもとで素粒子論を学んだ。でも、いつも「学問はいつでもできる。まずもって生死の問題を明らねばいけない」と思っていた。だから、もう徹底して坐禅一筋だった。▲澤木老師の行くところ、どこにもついていったよ。苦しいも眠いも痛いもない。ひたすら坐禅に打ち込んだよ。

大学時代は、山奥の寺を借りて暮らしていた。▲そこで論文を書いて、悠々と坐禅の生活をするようになった。▲食べ物といえば、玄米ご飯に、農家からもらってきた大根の葉っぱがおかずだ。それだけで、まったくからだの調子がいい。▲ほんまもんの食事は、からだが知っていて満足するんだなあと思った。いまでもぼくの食生活は、そんなものだ。▲母親は、ぼくが大学教授になることを期待していたけれども、ぼくは学生のまま出家生活に入ってしまったよ。

出家してから、五十年余になる。九時に寝て二時に起きて坐禅する生活だ。▲「一処不住」で、寺などない。持ちものといえば、リュックひとつでどこにでも出かけていく。▲どこに行っても、ぼくにはそこが道場になる。そうなると、行ったところ行ったところで、どんなところでもありがたいんだ。