過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

澤木老師の坐禅姿

澤木興道という禅僧がいました。そのお弟子さんの庵を訪ねたとき、床の間に澤木老師の坐禅姿の写真が掲げられていました。枯淡であり、とても美しい姿と感じました。澤木老師の言葉も迫力があります。それを紹介します。「禅に聞け」(櫛谷宗則著・大法輪閣

仏法は餌食拾いの方法ではない。自分の本質がいきる生き方である。▲もしも、食が授からなかったら、食わずに死ぬという覚悟が、そのころからできかけた。食うために生きるくらい、なんでもないことである。みんな生活が大変だ大変だとよく言うが、なあに食うだけなら屁ともない。しかし、そんなことに一生を費やしては、もったいないじゃないか。▲道のためには生命を全うしなければならぬが、道のために食えなければ飢え死にするまでのことである。十八のとき、わしはこう一生の方針を決めることにした。(「澤木興道 聞き書き」酒井得元著・講談社学術文庫

うっかりすると、仏法を、階段をのぼることのように思うてしまうが、そうじゃない。いつでも今。一歩踏み出したところが「一行一切行」「一切行一行」である。▲ええことをすると「ええことをした、ええことをした」と、ベッタリそれがひっつく。悟れば「悟った、悟った」と、またこれがベッタリひっつく。ええことをしたり、悟ったりせんほうがええんじゃ。サッパリしておらねばならぬ。▲必然に向かって、文句なしに受け取るのが悟りである。大悟とは「必然が必然と決まったこと」である。必然とは、宇宙とつづきだからである。▲逃げても限りなく、追うても限りはない。現在ぐずぐず言わずに、ただ坐禅している。▲仏になりたい? 仏になんぞ、ならいでもいいんじゃ。今が今、自分が自分ですればいいんじゃ。ここを捨てて、どこへ行くというのじゃ。