過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

「神と仏のオープンカレッジ」──日本のこころの土壌となる神道や仏教を学ぼう 企画書

タイトル:「神と仏のオープンカレッジ」──日本のこころの土壌となる神道や仏教を学ぼう

〈背景と目的〉日本のこころ(生き方、ものの考え方、美的感覚、道徳、習慣)の土壌に、神道と仏教がある。これらを外して、日本のこころはかたりえない。

けれども、その教えや生き方、実践を学ぶ場は見出しにくい。公教育で宗教教育はなされないので、宗教について無知と無関心、偏見があるのも事実。外国人から日本の宗教について問われたとき、適確に答えられるひとはすくない。

宗教に対する免疫のなさから、アブないカルト宗教に属してしまったり、異なる生き方・宗教に対して、ひどく不寛容で排撃する意識も生まれる。

そこで、神道と仏教についての学びの場をつくりたい。さらには、キリスト教イスラム教についても、学べるといい。それは日本のこころを学び、異なる考えや生き方を知ることにもつながる。

〈具体的な展開〉神道や仏教を軸にキリスト教イスラム教、ヒンドゥー教などについての連続講座を開催する。講師は、僧侶と神職や信徒。自らの生き方、暮らしにどう教えが生きているか。ブッダ聖典の教え、お経や坐禅、念仏などの実践法。葬儀や法事の意義、先祖供養についてもテーマにする。けっして特定の宗派の布教の場にはしない。

第1回:「法事と供養、僧侶の役割」なぜお寺が葬儀や法事を行うのか。葬儀は仏教的にどういう意味があるのか。供養の本義は。
第2回:「密教の魅力と実践法」カウンセリングと仏教。阿字観(密教瞑想)の実習。
第3回:「禅の心とマインドフルネス」道元禅師の生き方と「いまここ」の気づき。禅の実践指導。典座(精進料理)と禅の心。
第4回:「神道の基礎、祝詞の実習」神道の教えと作法。祝詞奏上。
第5回:「仏教と文学」『法華経』の世界観。法然上人の生き方と浄土の教え。
第6回:「キリスト教は人生の終末にどうかかわるか」神父あるいは牧師。あるいは、ターミナルケアに携わるチャプレン。
第7回:「他の国の宗教と生き方を知る」イスラムの教えと日常の暮らし、仏教の源泉としてのヒンドゥーの教えと生き方。

〈効果・展望〉
異なる考え・思想を学ぶという意味でも、キリスト教イスラム教の講師も招いていきたい。それは、異なる考えの基盤について思いを致し、異文化交流にもつなげていくことになる。

一方的な講義にはしない。参加者も意見を出しあい、学びあうひとたちの交流をつくっていけるようにする。講座を通して、神社と寺院とのネットワークができて、異なる宗派間の交流が生まれる。

神道や仏教は、学べば学ぶほどに奥が深い。深遠な哲理の世界であり、生き方の指針であり、文学や美的な趣があり、歴史の考察にもつながる。しかも、たんなる知識ではなく、心を治め人格を陶冶していくこと。実践による心身の健康へのきっかけになっていく。生涯学習のテーマとなりうる。

浜松市の文化事業としての提案。宗教的なものだけど、はたしてサポートしてくれるだろうか。異文化交流という視点も入れた。試してみる価値はあると思う。

納得のいく〈看とり〉と〈おくり〉を考えよう 企画書

タイトル:納得のいく〈看とり〉と〈おくり〉を考えよう

〈背景と目的〉人生において、親しいひとの〈看とり〉と〈おくり〉はかなり重要なことである。けれども、納得のいくことが、むつかしい。必要以上の延命治療などで、心からの〈看とり〉ができにくいこともある。息を引きとれば、そこからは葬儀社の出番。じっくり考える時間もなく、僧侶による儀式、告別式など、しきたりに従って慌ただしくすすむ。かなりの費用もかかる。

「みんながそうやってきた」とか、世間体や慣習だけでなく、ものごと本質から考えたい。もっとシンプルにできないか、もっと心のこもったものにできないか。そもそも仏教での葬儀(僧侶のお経、戒名、法事)に、仏教の本義から照らしてどんな意味があるのか。

やがて自らが看とられ、おくられる日がくる。そのためにも、どういう準備、どういう心構えが必要なのか、みんなで智慧をだしあっていきたい。

〈具体的な展開〉シンポジウム(当事者の体験トークとパネルディスカッション)を開催する。講師は、看取りとおくりに関わる仕事をしているひとたち(医師、介護士、看護師、セラピスト、僧侶、神父・牧師、神職、葬儀社、墓石屋など)。自ら〈看取り〉と〈おくり〉を体験したひとたち。そういうひとたちから体験をきいていく。

一方的な話ではない。教養を積む講座ではない。当事者の話を素材にして、参加者がともに語りあい、学び合い、考えを深めていくことが主眼となる。

第1回:看とりについて(医療や介護関係者、体験者)
第2回:看とりについて(医療や介護関係者、体験者)
第3回:おくりについて(僧侶、神職、神父・牧師、体験者)
第4回:おくりについて(僧侶、神職、神父・牧師、体験者)
第5回:おくりについて(葬儀、墓石、供養に関わるひとたち、体験者)
第6回:全体の総括

〈効果・展望〉
さまざまな当事者、体験者のトークに接することで、いろいろな看取りとおくりの方法があることがわかってくる。これしかない、という思い込みの枠が外れてくる。さまざまな選択の道があることがわかると、そこに安心がある。いざというときの心の準備にもなる。

シンポジウム参加者同士の交流が生まれ、たがいにサポートしあえる関係性に高まっていく。

愛する人を看とること、おくること。──人生において、もっともたいせつなことを、伝統やしきたりだけではなく、その本質から考える。それは、自らの生き方を見据えることにつながる。この連続講座をきっかけに、ひろく全国的なムーブメントを起こしてきたい。

※こちらも浜松市の文化事業としての提案。かなりディープな講座になると思う。採択されれば、だけど。

考えを止める(1)

考えを止める(1)「自分」と「自分の考え」は、イコール。「自分」と「自分の考え」は、切りはなせない。自分の考えは、自分そのもの。自分というものは、考えている自分である。デカルトのいう「われ思う故にわれあり」だ。

じゃあ、考えがなくなったら、自分はどうなるか。考える機能がなくなったら、自分という存在はなくなるのか。いや、考えがなくなっても、自分という確とした存在感はあるんじゃなかろうか。その存在感そのものが、自分であると。

考えは、自分のもの。自分の支配下にあるともおもうが、しかし、そうでもない。「考えをやめてごらん」と言われた時、考えはやめられない、止まらない。考えをスタートすること、考えを変えることはできると思うが、止めるというのがむつかしい。止めようと思うほどに、つぎからつぎへと浮かんでくるのが、考えだ。

つぎから次へと浮かんでくる考えによって、自分は支配されているような気さえする。この考えを止めるにはどうしたらいいか。

考えを止める(2)

考えを止める(2)こんな話を聞いた。インドで出家したアメリカ人からだけど、出典は聞かなかった。『マハーバーラタ』あたりかもしれない。

ある男が、とても優秀な召使がほしいと思っていた。なんでも率先して、やってくれる召使。そうして、そんな召使があらわれた。なに命令すれば、即座にやってくれる。「ご主人様、つぎは何でしょうか」と。はい次は、はい次は……。どんなことでも、ものすごいスピードで、実現してしまう。

男は最初はこれは便利でいいと思ったのだが、やがてほとほと疲れてしまった。気が休まるときがないのだ。それで、ある仙人に相談した。仙人は、こうアドバイスした。「その召使に一本の立てた棒を上がったり、下がったりさせればいい」と。なるほど、そうやって命令すると、召使は棒を上がったり下がったりをずっとしつづけている。これで、男はやっと心が安らかになったという。

これ、なんの話かというと、召使とは、自分の考えそのものだ。つぎからつぎへと、ものすごい速さで動き回る考え。そうして、棒を上がったり下がったりするというのは、吐く息、吸う息のこと。すなわち、呼吸に意識を向けること。呼吸につなぎとめることを指すのだと。

考えを止めるひとつの大きな鍵。それは、呼吸に意識を向けること。吐く息、吸う息に意識を向けること。つねに、呼吸に気づいていること。呼吸につなぎとめておく。それが、瞑想の極意であると。そんな話を思い出した。