過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

「個人事業主」ってすごいなあ

「夫が46歳で脳梗塞になって半身不随になった。自分は42歳だった。20年間介護したけど、夫は66歳で亡くなった。私の半生は本にしたら面白いよとみんな言う。

仕事は土建業だよ。倒れた夫に代わって社長業を務めたんだ。競争入札から現場の管理までやったよ。ここの阿多古川に、たくさんの人が泳ぎに来るので、駐車スペースをつくった。100台くらいおけるので、いい小遣い稼ぎになるんだ。」
 ▽
いま86歳になるという。深く刻まれたシワが、波乱万丈であったろう歴史をものがたる。もっと踏み込んで話を聞いったら、きっとおもしろい。だが、クルマの中で待っているあかりが「早く行こうよ、早くう、早く」と騒ぎ立てる。落ち着いて話などできないので、また次回とした。

そこは、カヤックであかりと漕ぎ出した阿多古川、2キロくらい漕いで、軽トラを止めておいた橋のたもとの到着点だった。
ふだんは、ブラジル人がじゃんじゃん大きな音楽かけて遊んでいる。でも平日なので、ほとんど人はいない。学生とおぼしき三人の男性がバーベキューしていた。
静大の大学院生で機械工学科だという。それぞれ出身は石川、長野、浜松。みんなやさしい。手羽先の鶏肉をいただいた。
そこから、重たい船を引き上げて軽トラの停車地点まで持っていかなくちゃいけない。
すると、駐車場を管理しているおばあちゃんがいたので、声を掛ける。春野の話やら、阿多古川の話をしていると、身の上話になったわけだ。
 ▽
こうしたおばあちゃんでも「個人事業主」の迫力ある。事業が失敗して倒産するか、腹を決めて、ぎりぎりの決断をしながら生きてきてきたわけだからね。
そこへいくと、サラリーマンの人生は、どんな一流会社で海外で大きな仕事をしていようが、自分のリスクじゃあない。会社の看板を背負ってやっているのだから、やはりつまらない。
ぼくもサラリーマンを12年したよ。若いときは、東京がいい、一流企業で海外とやり取りして、マンションを買ってみたいな暮らしがいいと思いこんでいた。
大阪でピアノを売ったり、山陰でボイラーや風呂を売ったり、ドイツやイギリスの現地法人に向けて貿易やら生産手配、一つの船を現地法人に向けて出荷すれば、売上は億単位だ。それから株式の管理、映画作り、本づくり、いろいろ仕事してきた。
けれども、会社の看板けで、自分の土俵じゃない、自分の力じゃない。上司に評価されようとして仕事をしているサラリーマンというのは、自分に向かない。その道をドロップ・アウトしてみて、都会での会社員生活はいかに躍動がないか、自分が生きてなかったのか、そのことに気づいた。
なにしろ勝負するワザも土俵もないんだからね。なにより、自分は何が好きかということがわからないなかでの漂流だった。
 ▽
ともあれ、インドと仏教が好きだということはわかった。そこで進んでいくうちに、仕事になっていった。
以来、ずっとフリーランス。田舎に移住してから、NPO法人もつくったり、介護事業も始めたが、なかなかうまくいかない。それでもまあなんとか、「編集と執筆」で生計を立てることに落ち着きつつある。しかし、つねに先のことはわからない。
こうした山里に暮らしていて「個人事業主」ってすごいなあとわかる。「個人事業主」というところから、いろいろな人の仕事を見たり聞いたりしていると、たくさん学びがあるのだ。

そこは、カヤックであかりと漕ぎ出した阿多古川、2キロくらい漕いで、軽トラを止めておいた橋のたもとの到着点だった。

ふだんは、ブラジル人がじゃんじゃん大きな音楽かけて遊んでいる。でも平日なので、ほとんど人はいない。学生とおぼしき三人の男性がバーベキューしていた。

静大の大学院生で機械工学科だという。それぞれ出身は石川、長野、浜松。みんなやさしい。手羽先の鶏肉をいただいた。

そこから、重たい船を引き上げて軽トラの停車地点まで持っていかなくちゃいけない。

すると、駐車場を管理しているおばあちゃんがいたので、声を掛ける。春野の話やら、阿多古川の話をしていると、身の上話になったわけだ。
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こうしたおばあちゃんでも「個人事業主」の迫力ある。事業が失敗して倒産するか、腹を決めて、ぎりぎりの決断をしながら生きてきてきたわけだからね。

そこへいくと、サラリーマンの人生は、どんな一流会社で海外で大きな仕事をしていようが、自分のリスクじゃあない。会社の看板を背負ってやっているのだから、やはりつまらない。

ぼくもサラリーマンを12年したよ。若いときは、東京がいい、一流企業で海外とやり取りして、マンションを買ってみたいな暮らしがいいと思いこんでいた。

大阪でピアノを売ったり、山陰でボイラーや風呂を売ったり、ドイツやイギリスの現地法人に向けて貿易やら生産手配、一つの船を現地法人に向けて出荷すれば、売上は億単位だ。それから株式の管理、映画作り、本づくり、いろいろ仕事してきた。

けれども、会社の看板けで、自分の土俵じゃない、自分の力じゃない。上司に評価されようとして仕事をしているサラリーマンというのは、自分に向かない。その道をドロップ・アウトしてみて、都会での会社員生活はいかに躍動がないか、自分が生きてなかったのか、そのことに気づいた。

なにしろ勝負するワザも土俵もないんだからね。なにより、自分は何が好きかということがわからないなかでの漂流だった。
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ともあれ、インドと仏教が好きだということはわかった。そこで進んでいくうちに、仕事になっていった。

以来、ずっとフリーランス。田舎に移住してから、NPO法人もつくったり、介護事業も始めたが、なかなかうまくいかない。それでもまあなんとか、「編集と執筆」で生計を立てることに落ち着きつつある。しかし、つねに先のことはわからない。

こうした山里に暮らしていて「個人事業主」ってすごいなあとわかる。「個人事業主」というところから、いろいろな人の仕事を見たり聞いたりしていると、たくさん学びがあるのだ。

「夫が46歳で脳梗塞になって半身不随になった。自分は42歳だった。20年間介護したけど、夫は66歳で亡くなった。私の半生は本にしたら面白いよとみんな言う。

仕事は土建業だよ。倒れた夫に代わって社長業を務めたんだ。競争入札から現場の管理までやったよ。ここの阿多古川に、たくさんの人が泳ぎに来るので、駐車スペースをつくった。100台くらいおけるので、いい小遣い稼ぎになるんだ。」

いま86歳になるという。深く刻まれたシワが、波乱万丈であったろう歴史をものがたる。もっと踏み込んで話を聞いったら、きっとおもしろい。だが、クルマの中で待っているあかりが「早く行こうよ、早くう、早く」と騒ぎ立てる。落ち着いて話などできないので、また次回とした。

そこは、カヤックであかりと漕ぎ出した阿多古川、2キロくらい漕いで、軽トラを止めておいた橋のたもとの到着点だった。

ふだんは、ブラジル人がじゃんじゃん大きな音楽かけて遊んでいる。でも平日なので、ほとんど人はいない。学生とおぼしき三人の男性がバーベキューしていた。

静大の大学院生で機械工学科だという。それぞれ出身は石川、長野、浜松。みんなやさしい。手羽先の鶏肉をいただいた。

そこから、重たい船を引き上げて軽トラの停車地点まで持っていかなくちゃいけない。

すると、駐車場を管理しているおばあちゃんがいたので、声を掛ける。春野の話やら、阿多古川の話をしていると、身の上話になったわけだ。

こうしたおばあちゃんでも「個人事業主」の迫力ある。事業が失敗して倒産するか、腹を決めて、ぎりぎりの決断をしながら生きてきてきたわけだからね。

そこへいくと、サラリーマンの人生は、どんな一流会社で海外で大きな仕事をしていようが、自分のリスクじゃあない。会社の看板を背負ってやっているのだから、やはりつまらない。

ぼくもサラリーマンを12年したよ。若いときは、東京がいい、一流企業で海外とやり取りして、マンションを買ってみたいな暮らしがいいと思いこんでいた。

大阪でピアノを売ったり、山陰でボイラーや風呂を売ったり、ドイツやイギリスの現地法人に向けて貿易やら生産手配、一つの船を現地法人に向けて出荷すれば、売上は億単位だ。それから株式の管理、映画作り、本づくり、いろいろ仕事してきた。

けれども、会社の看板けで、自分の土俵じゃない、自分の力じゃない。上司に評価されようとして仕事をしているサラリーマンというのは、自分に向かない。その道をドロップ・アウトしてみて、都会での会社員生活はいかに躍動がないか、自分が生きてなかったのか、そのことに気づいた。なにしろ勝負するワザも土俵もないんだからね。なにより、自分は何が好きかということがわからないなかでの漂流だった。

ともあれ、インドと仏教が好きだということはわかった。そこで進んでいくうちに、仕事になっていった。以来、ずっとフリーランス。田舎に移住してから、NPO法人もつくったり、介護事業も始めたが、なかなかうまくいかない。それでもまあなんとか、「編集と執筆」で生計を立てるということに落ち着きつつある。しかし、つねに先のことはわからない。

ともあれ、こうした山里に暮らしていて「個人事業主」ってすごいなあとわかる。「個人事業主」というところから、いろいろな人の仕事を見たり聞いたりしていると、たくさん学びがあるのだ。