もちの木診療所に行く。
ここの先生は80代。漢方医であり浄土真宗の坊さんの資格を持っている。いつも仏教書を読んでいる。デイサービス、老健などを経営し、菜園もしっかり丁寧にされている。
──先生、山里の医者は、みんな80代。早いとこ若い医者をなんとか探してくださいよ。
「そうなんだよ、いま募集しているんだけど、こないんだよ」。
──医者は引き手数多だし、まちなかでやったほうがもうかるし。山里は年寄りばかりで面白くないしってとこですかね。
しかし、このままじゃ無医村になってしまいますね。特養とか、老健とか、デイサービスとかどうなるんですかね。
人を雇うには、やっぱりお金じゃないですか。倍払うことにしたら、応募者が出てくるかも。そしてまた、自治医大の過疎地でのノルマのある人とか。
「まあ、そんなにべらぼうな給料を出すわけにはいかんしなあ」
──まあ、ともあれ年寄りばかりで、山里だといかに平穏に死んでいくのかって話ばかりいつもしていますよ。平穏死したければ、医療と関わるなってこととじゃないですかね。
ああそうだ。こんと、そんな話をZOOMに登場して話してもらいたいんですけど。
「ぼくはそういう機械類はまるきしだめで」
──じゃあぼくが全部セットしますので、ここでZOOMセットします。あるいは、うちの施設に来てもらって「看とりと平穏死」の話をお願いします。
そういうことになった。まぁそんな話をしながら「ところで池谷さん、仏教について、聞きたい。どうして大乗仏教できたのかね。生老病死の生の苦しみってなんなんだろうね」。
──原始仏教時代から、大乗の萌芽があったんでしょうね。釈迦が弟子に向かって、「この朽ち果ててゆく肉体を拝んでなんになるんだ。わたしをみるものは、法をる。法をみるものは私をみる」
という言葉が残っていますからね。そこから、法身論とか仏性論みたいなことにつながって、挙げ句は久遠仏とか、毘盧舎那仏とか大日如来に拡大していくんじゃ。
みたいな話で盛り上がっていった。しかし、次のお客さんが来たのて、そこでおしゃべりはおしまい。
ともあれ、この先生と「それぞれの見守り・看とり・平穏死」をテーマに、来年ZOOMで公開の語り合いをセットさせてもらうことにした。