過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

空き家のマッチングの仕事の可能性

いま山里は空き家だらけ。かなり加速度的に増えている。あこちもこちらも。あと数年したら、それこそ集落がなくなるかも。

ということで、次のような仕事の可能性もないことはないか。ま、地域との付き合いとか、ハードル高いけれども。
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だから、人がそこに存在しているだけで、「家の生命力」は賦活され、「山の生命力」は維持される。「存在しているだけ」ではちょっと言葉が足りないですね。そこにいて、「掃除」とか「片付け」とかをしているだけで、と言い換えます。

内山さんが書いている「枝をはらい」「憂を切る」というのは、家の場合だったら、「床を掃く」とか「打ち水をする」とか、そういうちょっとした作業のことだと思います。

ただ、そこにいるだけじゃダメなんです。そこにわずかなりとも秩序をもたらそうと志向すること。だから、空き家に狐狸の類が棲みついても、崩壊は止まらないと思います。獣はたしかに生命体ではあるけれど、「家の中を片付ける」ということをしないからです。

カオティックな世界にわずかなりとも秩序をもたらそうとするものが出現すると、それだけで世界はその表情を変える。

「引きこもり」を現代の堂守・寺男として採用

昔から、どんな神社仏閣にも堂守や寺男と言われる人がおりました。けっこう巨大な寺社、たった一人で暮らしていることもありました。たいした仕事があるわけではありません。門を開け閉めしたり、鐘を撞いたり、庭の落ち葉を掃いたり、本堂に風を通して拭き掃除をし......くらいの仕事です。

でも、そういう人が一人いて、そこに寝泊まりして、そこにささやかな秩序を保つための作業を日々繰り返しているだけで、巨大な建物が崩れずに持された。

軽作業ができる程度の人を一人住まわせておけば、その人が分泌する生命力と、秩序をもたらそうとするささやかな労働だけで大伽藍は維持された。そのことを昔の人は経験的に知っていたのだと思います。

堂守や寺男は防犯防災のために配置されていたわけではありません。腕っぷしの要る仕事ではありませんから、押し込み強盗や盗人がきたら、とても太刀打ちできなかったでしょうし、煮炊きをするわけですから防災上は「いないほうがまし」かもしれない。でも、寺社を無住のままにすることを昔の人は決して望まなかった。

この堂守・寺男の仕事を無住の寺社、無住の家屋の維持管理のために就業斡旋することはできないだろうか......ということをこの間考えつきました。それは友人の渡遮格・麻里子ご夫妻を鳥取県ねたときに聞いた話から思いついたのです。

智頭もしだいに人口が減っている町ですけれども、その山奥にはさらに過疎の進んだ集落がある。あるとき、ついに住民がゼロになってしまった。でも、江戸時代から続く立派な家屋敷が残されている。お盆には法事に戻りたい。そこで「誰かに代わって住んでもらいたい」という話になった。

たまたま家を探している女性がいて、その人が「住みたい」と言ってくれたので、集落の大きな家に住んでもらうことになった。その人は昼間は町へ下りて、パートの仕事をして、夕方になると集落に帰って、一人で夜を過ごす。

人一人いない集落で寝起きするのはさぞ心細いだろうと僕は思うのですが、どうもそういうのが好きだという人だったらしい。そのうちまた二人、若い夫婦が集落に家を借りて、いまは家が数十軒あるその集落に三人が暮らしているんだそうです。

その話を聞いているうちに「これってうまくマッチングしたら、やりたい人けっこういるんじゃないか」と思いました。

日本には今「引きこもり」が一〇〇万人いるそうです。終日部屋に閉じこもって、何をしているかわかりませんけれど、とにかく外に出たくない、誰にも会いたくないという人がそれだけいる。

その中には、「別に自分の家の部屋じゃなくてもいい」という人もいるはずです。とこでもいいから、人と顔を会わさないで静かに暮らしたいという人がいたら、彼らを「現代の堂守・寺男」として採用したらどうか。

他人とコミュニケーションを取るのが苦手だというので部屋にこもっているのだとしたら、「無人の家で寝起きして、煮炊きして、ときどき雨戸をあけて風を入れたり、座敷を掃いたり、廊下を拭いたりしてくれるだけでいい」という仕事なら「やってもいい」という人がいるんじゃないでしょうか。一00万人のうちに何千人かでも、そういう人がいたら、就業機会を提供できる。

昼寝をしていても、ゲームをしていても、本を読んでいてもいい。とりあえずそこにいて、家の生命力を賦活するという仕事です。たいした対価は受け取れないかもしれませんが、とにかく労働して賃金を得ることはできる。
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日本習合論
ミシマ社 著者内田樹