過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

「自分史聞き語り」は続いている。3話目だ

87歳の方の「自分史聞き語り」は続いている。3話目だ。
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戦時下は、いつも食糧難であった。栄養不足のため、母は乳の出が悪くて、生まれたばかりの妹は、とても小さかった。

私が小学校5年生の時だ。
妹が生まれて一ヶ月のとき、母と一緒に近くの神社にお参りに行った。そこで出会った赤ちゃんは、同じく生後一ヶ月なのに、まるまると太っていた。妹は全く貧相でやせ細っており、大きさに雲泥の差があった。

その子のお母さんが気の毒に思って、「お乳が出ないなら、うちにもらいにおいで」と言ってくれた。
私は、朝晩、毎日休まずに、妹をおんぶして、もらい乳に行ったのだった。
7月から10月までのまる3ヶ月、雨の日も風の日も、妹をおんぶして通ったのだった。身長が110センチほどの私が、いつも妹をおんぶしての子守係なのだ。もとより背の低かった私は、背が伸びなかった。

家に帰ると、食器を洗うこと、じゃがいもの皮を剥いておくこと、雑巾がけをすることなど、やることがいつも書いてあって、それをやらないと叱られた。

妹のオムツが濡れていると言っては、親に叱られた。おむつを洗うのは私の仕事だった。井戸があったけれど、つるべを落としてまた引き上げなくてはならない。幼い私には、そんな体力はなかった。村の真ん中には、川が流れていて、いつもそこで洗ったのだった。

小学校5年生の時に、担任の先生が出征した。
先生が村人に見送られていく時「空の神兵」という歌を、大声で必死の形相で歌ったのを覚えている。

藍より蒼き 大空に 大空に
たちまち開く 百千の
真白き薔薇の 花模様
見よ落下傘 空に降り
見よ落下傘 空を征く
見よ落下傘 空を征く

先生は、もう生きて帰ってくることはないと思っていたのだろう。しかし、先生は無事、戦地から帰って来ることができた。私は、その先生のおかげで習字が得意になったのだった。全国展で金賞もいただいた。すでに先生は亡くなられたが、その奥さまとは、手紙のやりとりは続いている。
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いつものように、お話を聞きながら、その場でiPhoneでの音声入力文字変換で行っている。