過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

30年代の山里の暮らし 小水力発電

春野に小俣(おまた)という地域がある。春野には京丸という秘境があるが、そこからまたひとつ山を超えたところだ。こちらも秘境である。標高は600mくらい。かつては10世帯ほどの集落があったが、もうだれもいない。崖も崩壊して一部の民家は潰れている。

その小俣出身のお二人(88歳と70歳)が訪ねてきたので、昔話を聞いた。

ひとりは10歳のとき、両親とともに豊橋に移住した。中学を出て、三菱レイヨンに勤めた。当時女子高生がよく履いている白い靴下を作っていたという。ひとりは22歳のときに、兵庫県の城崎から嫁いできた。20年余を小俣で過ごした。
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いかにも不便極まりない山間部の暮らし。そこで工夫を重ねる人たちの生きざま。書き出せば一冊の本になってしまう。何回かに連載したいが、今回は60年前の電力事情についてである。

昭和30年代のの小俣集落はまだ完全電化されておらず、小水力発電であった。小俣川でタービンを回して水力発電し、各家庭に配電していた。

タービンの管理は当番制で、各家で一週間を担当する。当番になった家は、毎朝、山の上から川まで10分くらいかけて下りて行ってスイッチを入れる。そして夕方になると、また下りていってスイッチを切る。急峻な山の坂道の上り下りはたいへんだったろう。

冬などは川に水が少なくなるので、電力はとても弱くなる。せいぜい使えるのは、明かり採りくらいで、電化製品は使えなかった。洗濯機はないし、電力不足で使えない。アイロンは、炭を入れてその熱で伸ばす。そもそも、アイロンをかけるようなものを着ることなどはなかったが。

冷蔵庫のない時代だった。イノシシの肉などは、味噌の上に乗せて保存した。サツマイモやジャガイモなどは、土の中に室(むろ)を掘って、そこに保存した。光が当たらないので芽が出ない。そして、長期保存ができる。
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テレビはかろうじて見えた。しかし、電圧の変化で画面が小さくなったり大きくなったりした。なので、仕事しながらもっぱらラジオを聞いていた。

愛と死をみつめて」というラジオ劇場を覚えている(1964年:昭和39年)。大学生河野實と、軟骨肉腫に冒され21年の生涯を閉じた大島 みち子との、3年間に及ぶ文通を書籍化したものだ。当時、ベストセラーになり、歌も大ヒット。吉永小百合主演で映画化もされた。

実家(兵庫県の城崎)の兄が、東南アジアに旅をするときに、仕事を手伝ってくれた。茶摘み、木を切ったり運ぶこと、土木作業と、人生で初めての仕事ばかりだったろう。「この電化時代に、これから先どうやって生きていくんだ」と言っていた。

こうした不便な山に暮らしていると、人に頼んではいられないので、なんでも自分でしなくてはならない。だから、器用な人が多かった。夫はなんでもできる人で、「器用貧乏 村宝」と呼ばれた。集落は相互扶助だから、お金はとらない。お互いに助け合って、それぞれが得意なことで助け合うことになる。
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そんな秘境の山から医者に行くのは難儀だ。歯医者は森町や気田の町に行った。徒歩で20〜30分かけて高杉という峰まで行き、そこから平城まで自転車。そして、そこからホンダのスーパーカブという原付のバイクでいくわけだ。片道1時間以上。舗装されていない山道なので、トラックなどがすれちがうと、恐ろしかった。バイクが山道に落ちて、そこから這い上がるのがたいへんだったことがある。

労働力としては馬を飼っていた。ひとつ屋根の下に、自分たち家族と馬が同居していた。重たいものなどを運ぶのは馬の仕事である。馬は運送屋である。馬を働かせて厩舎にいれるとき、姑などは「お疲れさま、ありがとう」とお湯でいつも馬の足を洗っていた。(続く)