過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

原始仏教と大乗仏教の違いを存在論からみてみたい

ざっくりと原始仏教大乗仏教の違いはなんだろう、ということを考えている。

いわゆる自分だけの解脱をもとめるのが原始仏教であり、自分が解脱していないのに他の救済を行う菩薩行が大乗という見方もある。自分が救われないに、人を救うことなどできないと思うのだが、ま、それはおいといて。

今回は、その存在論からみてみたい。

まず仏教の基本は、この世は「無常」であり「無我」であるというところだ。すなち、すべてに実体がない。ゆえに「苦」と説かれる。

大乗仏教の代表格の「般若心経」には「色即是空」と説かれる。存在するあらゆものは空である(実体がない)とする。これは原始仏教と文脈とはおなじである。

しかし、「空即是色」とつづく。こうなると、むつかしい。原始仏教の文脈とは外れそう。

すべてのものは実体がない、空であるというと、その観念が固定化される。「空」というものが実体となって、根拠となって、世界が現れてくるのではなかろうか。

この場合の「空」とは、空虚、実体のないものであるとともに、数字のゼロ(スンニャータ)とおんなじで、あらゆる可能性に満ち満ちているもの。その究極である空から、現象世界が現れるということにもなる。それが「空即是色」と。

さて、大乗仏教のもう一つの柱をみてみる。それは「唯識」(ゆいしき)。世界は「識」のみである。認識がでできるから、はじめて世界がある。認識できなければ、世界はない、ということになる。

そうして、自分の無意識、さらには人間という集合無意識、さらには宇宙につながる無意識(いわば、自性清浄身、仏性)から、世界がたちあらわれてくるという考え方でもある。そこから「空即是色」という文脈とつながってくる。

空=般若=自性清浄身=究極の真理=真如である。

そうして大乗仏教では、それが擬人化されて、仏となる。それは、インドに生きて教えを説いて涅槃に至ったブッダではない。

ブッダブッダたらしめたもの、すなわち仏性、自性清浄身、あるいは法身(ほっしん)ということになる。それが、名前でいうと、摩訶盧舎那仏(まかびるしゃなぶつ)とか大日如来(だいにちにょらい)とか久遠仏(くおんぶつ)などということになる。

このあたりが、原子仏教と大乗仏教との大きな違いになるだろうか。原始仏教では、究極の固定的なものをみとめない、ましてやそこから宇宙が立ち現れるという考えはない。

この無限なるもの、究極なるものから世界がたち現れてくるというのは、むしろインド哲学の源流だと思う。ここで大乗仏教インド哲学は通底する。

インド哲学においては、究極はtat(名付けられないもの、「それ」としか言えないもの)といわれる。そして、「Tat Tvan Asi(タット・トヴァン ・アシ)」=You are That=あなたがそれである、というのだ。

tatは漢訳すると真如(あるがままの真実)である。このtatからやってきてtatに帰るのが、如来(tathagata=真如から来た人、真如に帰る人=仏)ということになる。

その究極であるtatの、いわば「ゆらぎ」あそびから、世界が立ち現れる、と。そうして、それと一体になるのが、修行の目的。すなわち、宇宙即我とということになるか。