過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

宗教の中核にあるものは、ほとんどが「フィクション」だ。仏教はどうか。

宗教の中核にあるものは、ほとんどが「フィクション」だ。フィクションを中核にしない宗教があるだろうか。それは宗教といえるのだろうか。宗教=神話、物語、フィクション。

たとえば、ゴッドが世界を創造した。天之御中主が世界を作った。神とイエスは一体である。ブラーフマンとヴィシュヌとシヴァ神が一体であり究極である。久遠の本仏というものがおられて、滅することはなく、つねに説法している。

阿弥陀如来がおわして、みんなを救ってくださる。観音様がおられて、念ずれば救ってくれる。お不動さんがおられる。大日如来がおわす。念ずれば浄土に生まれる。天国がある。

……などなど、さまざまなフィクションがある。フィクションというと語弊があるかもしれない。いわば象徴的なもの、ともいえる。

もしかして、事実かもしれないけれども、いずれも自分では確かめることができない。自分では確かめることができないので、そこは「信ずる」ということになる。信じなければ始まらない、とも言える。

こういった宗教とは次元を異にして、まったくリアリティに立つ教えがある。いまここの自分のありように立つというところ。自分の実感に立つというところ。その教えが、ブッダの教えではないかと思っている。ありありと目の当たりに実感する境地を伝え、実践法を伝えたのがブッダであった、と。

しかし、後世、そんな難しいことよりも、悟った人を拝めばいい。偉大な存在に帰依すれば救われる。そういう「信仰」の世界になってしまったと思う。それは、安易な堕落なのかもしれないし、真理に至るための方便(真理に近づく方法)として、意義があることかもしれない。