過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

不断と普段の祈りのエネルギーが満ちていないと、魅力がない

たくさんどんぐりが落ちるので、友人のAさんのところに、もらいに行った。留守だったけど、勝手に庭を散策させてもらう。植生がすばらしい。雑木がたくさん。そばに清流がながれる。とってもしあわせ気分。

そして、あれまあ。庭にこの社を見つけた。最近、つくった。また近所には、「貧乏神」をまつる神社をつくられた方もいる。

適当にこんな社を作るなんて、遊び気分だ、不敬だ、不遜だ。そういうひともいるかもしれない。まあ、たしかにそうかもしれない。

しかしまてよ、そもそも神社の起こりなど、そうしたものかもしれない。いまある、たいそうな神社やお寺だって、そんなとこから起こったのかもしれない。それが長年の歴史を経て、ありがたいとなっていったのかも。

宗派によっては、「祈りなど必要ない」というところもある。けれどもひとつ、これはいえる。お寺や神社は、不断と普段の祈りのエネルギーが満ちていないと、魅力がない。どんなに立派な伽藍があったとしても、それのない寺社は、訪ねてみるとなんにも響かない、伝わらないということがある。

そうして、いちばんたいせつなのは、自分の家に、自分の場に、祈りのエネルギーがあること。自分の暮らしに、生き方に、いまここに。ま、祈りと言わずに、感謝の念といってもいいかも。