過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

(2)「殺」について、仏教のおしえの変化をみている

(2)「殺」について、仏教のおしえの変化をみている。ブッダは説いている。「すべてのものは暴力におびえている。すべてのものは死をおそれている。自分の身にひきあてて、殺してはならない。殺させてはならない」と。

この教えが、どのように変化していったのか。ここは論文じゃないので、ざっくり大雑把にみている。

初期仏教、いまの南方仏教をすこしみてきた。大乗仏教さらには密教では、どのようにとらえられているか。

大乗の教えでも、仏教者の守るべき基本は戒律であり、そこには「殺すなかれ」とある。けれども、大乗経典にあって、「殺」が肯定されるような記述がみられる。

たとえば「涅槃経」には「正法を護る者は当に刀剣器仗を執持すべし」とあり、教えを守るためには、武器を携えてもよい、と。すなわち教えを守るためには、戦って敵を傷つけ、いのちを奪ってもよいということになる。

あるいは、「善男子若し能く一闡提を殺すこと有らん者は 則ち此の三種の殺の中に堕せず、善男子彼の諸の婆羅門等は一切皆是一闡提なり」というような記述も。すなわち、一闡提(成仏できない人間)を殺す者は罪にはならない。そして、婆羅門(バラモン教徒)たちは闡提である」と。

あるいは、過去世にブッダ自身が王であった時、正しい教えを誹謗するバラモンたちの命を奪った。そのおかげで、地獄に堕ちることがなくなったという記述もある。これらは、いずれも「涅槃経」である。

さらに、密教においてはすさまじい。有名な「理趣経」であるが、「一切有情殺害三界不堕悪趣」と。三界の一切の衆生を害しても、般若理趣の法門を奉じているならば、悪趣に墜ちることはない、とある。このお経は、真言宗のお坊さんが、毎朝読んでいるものである。

あるいは、後期密教の『秘密集会タントラ』では「秘密金剛によって一切衆生を殺害すべし。殺されたその者達は阿閦如来仏国土において仏子となるであろう」と説かれている。