過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

「殺」について、仏教ではどうとらえているのか

(1)「殺」について、仏教ではどうとらえているのか、しらべてみた。

もっとも古い経典の一つである「ダンマパダ」にはこうある。「すべてのものは暴力におびえている。すべてのものは死をおそれている。自分の身にひきあてて、殺してはならない。殺させてはならない」と。生あるものを殺さないことは、ブッダの教えのかなりの中核部分だと思う。

では、殺された肉はいっさい食べないのかというと、そうでもないらしい。初期仏教においては、「三種の浄肉」といって、托鉢の際、自らが戒律中不殺生戒を犯さない布施の場合は肉食してよいとされる。すなわち「殺されるところを見ていない。自分に供するために殺したと聞いていない。自分に供するために殺したと知らない」ならば、罪にならないとされる。

かつて南方仏教のえらいお坊さんたちの集いに出たことがあった。ホテルで催されたパーティでは、寿司などが出ていた。お坊さんたちが寿司を食べることに、ええ? と驚いたのだが、かれらは、「自分のために殺されていない、聞いていない、知らない」ので、食べても問題ないということになる。

おいしい魚が食べたいなあと、お師匠さんがつぶやく。それを聞いた信徒が、料理して差し出す。かの僧侶は、「自分のために殺されていない、聞いていない、知らない」ので、罪にはならないということにもなる。

では、大乗仏教ではどうか。密教ではどうか。さらには、日本仏教ではどうか。すこし考えてみたい。続く。