過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

文章を書くことがもっとも学びになる

大学に行ったが、まったく授業に出なかった。当時は、学生運動の残滓が強かった。受験日は、校門にはバリケード、そして機動隊がずらりと数十名。入学すれば、やれ革マルだ中核だ、民青だと、キャンパスはアジ演説と立看板だらけ。校内は荒れていた。

授業に出ず、マルクスがどうの、ヘーゲルが、ウェーバーがどうのと論議していたが、まったく中身がわかっていなかった。いまもわからないけど。

入学式も卒業式も出なかった。留年もした。もったいないことで、しっかり学んでおけば生涯の宝になったのに、と後悔するが、それはもう仕方がない。
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サラリーマンになって、広島〜大宮〜浦安〜新宿〜国立に移住。やがてサラリーマンもやめて、インドにでかけたりして模索しているうちにフリーランスのライター&エディターとなった。
フリーランスなので、安定していないが時間ができた。近くの公民館で暇をみていろいろな講座を受けてみた。

国立はいいところで、公民館の招く講師は一流の人が多かった。一橋大のイスラム学の内藤正典さん、山口文憲さんの文章教室、内山節さんの田舎の暮らし、堤未果さんの世界事情、翻訳家の池田香代子さん、野口体操の池田潤子さんのワークショップ。しかも、受講生は10人から50人くらいだった。

一橋大も津田塾大も近かった。甲野善紀さんの実技、2ちゃんねる時代のひろゆき、医学の養老孟司さん、数学者の秋山仁さんの講演。津田塾大では盲目の作家 三宮麻由子さん、詩人で社会評論家のアーサー・ビナード氏。さらには、国立音大には毎月コンサートを聴きに行った。

都心も近い。仏教や宗教の講座もよく行った。笠原一男、田村芳郎、中村元紀野一義、鎌田茂雄、松原泰道中沢新一日野原重明さんなど、諸先生の講義。かの麻原彰晃の講演会にもでかけたものだ。
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こうした一流の方の講座、講演、ワークショップがほとんど無料で受けられたのだ。じかに接する、謦咳に触れる。それがとても大切。エネルギー、気迫が伝わるからね。

学ぼうと思ったら、とくに大学に行かなくてもいい。こうやって公民館や公開講座で十分かも。今東光などは、一高のモグリ学生となり「盗講」した。そして川端康成などと交友をもったわけだ。いまの時代、YouTubeやVoicy、ZOOMやGoogleMeetなど、さまざまなツールがある。

大学は、○○大卒という履歴のためだけだったなぁ。企業からすれば、どこの大学を出たか、あるいは優の数でふるいにかけられる。「なにをどう学んだか」は問われることはない。どのみち企業は、OJTで鍛えるわけだし。
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ただ、人の話を聞くだけでは頭は整理されない。それひとつの消費者。そこから、生産者になっていくのがいい。それは、書くこと。

とはいうものの、書く機会を得るというのは、難しい。
さいわいニフティサーブというパソコン通信があらわれて、それでやりとりしていくうちに文章を書くのが楽しくなった。
相手に向かって書くということで、文章力が養われる。アタマも整理される。わかっていないことが分かる。聞かれる、問われる。それで調べる。考える。そうして人とのネットワークが広がる。
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つまるところ文章を書くことがもっとも学びになる、と思っている。学びそのものがとても楽しいわけだ。そんなことは大学時代に気がつけばよかった。しかし、それはわからなかった。

あかりには、学校に行かなくってもいい。読書と作文。そして絵を描くことで観察力が身につく。そう教えている。
書く、そして発信する。声でも映像でも。発信することで学びが磨かれる、と。