過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

おばさまたちの意識は、伝統とか慣習のわずらわしさから脱却してきている

デイサービスの事業継続のために、引き継ぎに入っている。この数日は、見習いとして送迎からケアマネ挨拶など、行動している。そして、利用者さんとは、いろいろ雑談をしている。みなさん80台だ。
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こんな話で盛り上がる。友人の奥さんが亡くなりそう。それで、夫は妻の目に自家製の棺桶を制作するという話をすると、「そんなステキなご主人がいて、幸せなこと」と4人の方が言っていた。そして話は、葬儀のあり方にも。

葬儀はひっそりがいい、とも言う。
集落に案内がいきわたると、いわば義理で組と班とか地域の人がいろいろ弔問に来られる、手伝いにきてくれる。しかしそれが、遺族には気持ちの負担になる。香典返しやら、手伝ってくれ人たちに対しての気遣いとかお礼とか。
そのためにも、地元で葬儀をしたくない。まちなかで、密葬でいきたい。
「あら、○○さん、そういえば見なくなったわね。どうしたのかしら……。あら、もう亡くなっていた」と。……そんな死に方が理想だ、という人もいた。
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お坊さんのお経とか戒名とか、どうでもいい。お墓もいらない。散骨でも海洋葬でも何でもいい。そのように子どもたちに言っている。
死んでしまったらもうおしまい。もうこの世とは関係ない。供養とか法要とか先祖供養と言うけれど、それはほとんどが遺族の安心感、自己満足じゃないかしら。
おばさまたちは、そう語っていた。
こんな山里にあっても、おばさまたちの意識は、伝統とか慣習のわずらわしさから脱却してきている。
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多少、池谷的なドライブが効いていたのかもしれないが。「こういう話は大切なことだから、つねに語り合っていきたいわね」とみなさん言われていた。
また、昨年のように、看とりと送りを考える集いをそのうち企画しよう。デイサービスの場でそれをやると、ちとリアリティがありすぎかな。いやしかし、だからこそ、おもしろいともいえるが。
自らの死を語ることは、いまの生を語り、生き方を確認すことにつながるのだから。そして、人はいつか必ず死ぬ、自分がまちがいなく死ぬわけだから。時間の差でしかないわけで。