過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

若松英輔さんとのお話から

取材させていただいた若松英輔さんとのお話から。感性豊かな言葉が無駄なく次々と繰り出されてきた。それを、読者向けにわかりやすくしているところ。いま試行錯誤中。すこしエッセンス……。


「祈り」とは「願い」の対極にあるものなんですね。「願い」というのは、「こちら」の思いを「あちら」に届けようとすることです。「あちら」は「こちら」を知らない。呼びかけないと気づいてくれない。訴えなければ、何に困っているのかはわからない。それが前提にあるんですね。

けれども実際には、「あちら」は「こちら」のことをすべてみておられる。わかっておられるわけです。そうすると、なにも願う必要がない。訴える必要がない。「願うまでもない」ということなんです。

別の言い方をすれば、祈りとは、「あちら」の声を聴くということなんです。聴くためにいちばん最初にしなければならないのは、沈黙することですね。「あちら」の声を聴こうとするときに、ひとは自分の願いを届けることを、ひとたびやめてみなければならないんです。

存在の深みに入るためには、ひとりになることがたいせつなんですね。ひとりであるとき、ひとは苦難のなかでも、しあわせを感じることができるものです。過酷でつらいこと、あるいは悲しみの底に、ほんとうのしあわせがあったりする。

たしかに悲しみというのは、忌むべきものです。でもじつは、その忌むべきものの底に、自分が生涯かけて探してきたものがあるんじゃないでしょうか。そのとき、ひとはなにかに照らされているかのような、とても深いところにいるわけです。