過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

春野の畑で青空キッチン さて施設をどう作るか

いま企画しているのが「春野の畑で青空キッチン」。ポイントは「食べる」こと。「畑で調理して食べる」こと。

みんなで収穫して、その場で調理して食べられる。土づくりから、栽培、収穫、調理のプロセスを一貫して体験できる。まちなかの人も、農業体験として参加できる。

そのためにも「場」づくりだ。ゆったりした休憩所をつくる。中には、耐火レンガでカマドも石窯も作る。「火」があって、「食」が基軸にあると、おしゃべりもすすむ。集いやすい。「火」があると、空間は質的に変わるものだ。

調理と食事ととくつろぎの場。そこは、おしゃべり空間、出会い空間、絵本の読み聞かせ、ぼんやり過ごす場、農作業の休憩場、説明会の場、ものづくりの場。いろいろ使える。

地域の人たち、じいちゃん、ばあちゃんたちが、気軽に寄ってくれるようにしたい。そこで、お年寄りの知恵をお借りしたい。子どもたちの遊び場にも。子育てママの交流の場にも。

ということで、問題は施設をどうつくるかだ。経費だ。マンパワーだ。

山里には達人が多い。ひとりで家を作った方は、何人もいる。間伐材も入手しやすい。木を伐って製材する人もいる。そういう人の力を結集できればすばらしい。

ま、かんたんなのは、既存のビニールハウス(5メーター×20メータ)を移築すること。昨年、つくった間伐材の小屋を増設していく。角パイプを安く譲ってもらって、溶接して作る。

ただし、農地に建てるという制約もある。地目変更しないと、農作業小屋しか建てられない。台風で気田川が増水して、水が逆流してあたりが水没するリスクもある。近くの小高い丘を借りて作るという選択もある。地主との交渉もある。

そんなことで、この数日は、農家民宿の人、土木建築の経験者、木工の人など、いろいろな人とアイデアを出しているところ。ぼくは企画書と予算作りを。






一神教は、砂漠の宗教という背景があるだろうか

一神教は、砂漠の宗教という背景があるだろうか。

砂漠をすすむときには、各自が勝手にいくと、危ない。強力なリーダーの統率のもとに旅をすることになると思う。

モーゼのような強靭なリーダーに統率されて、ユダヤの民は奴隷状態であったエジプトを脱出する。モーゼは神の言葉を受けながら、神との約束を確認しながら、進んでいく。率いていく。やがて砂漠を渡ってカナーンパレスチナ)の地にたどり着く。

砂漠は日が昇る前は、ものすごく寒い。凍える。ところが、日が昇ると、ぎらぎらと身を焦がすような太陽の光が恐ろしい。逃げ場もない。木がない。水もない。

砂漠の民は、唯一の神、統率するリーダー。そこに全託するというありようになるのかもしれない。リーダーに逆らえば、いのちが危ない。きびしい契約が求められる。

いっぽう、木や草が繁茂する地域では、様相がちがう。

各自が勝手に暮らしても、生きていける。いのちをはぐくむ土、太陽、水、草木、風……そういうものに感謝する。そこに神をみるのかもしれない。多神教となる。神とのきびしい契約など必要ないのかも。

声の響きと身体感覚というところからみて

かつて西インドの砂漠を旅した時、太陽の輝きは厳しすぎると感じた。5月だった。熱くてどうしようもない。おそろしい。砂漠の民は、太陽よりも月であり星がたいせつ、と感じた。

ラクダつかいは、遠方のであゆむ人たちに呼びかけるとき、天にむかって、投げかけるように、歌うようにして声をかけていた。

その歌い方、声の響かせ方は、モスクで『コーラン』の詠唱をきいたとき、相通じるものを感じた。

アラーーーーーーーーーア、アクヴァーール。

いっぽう、ガンジス河のほとりで宿泊した時、朝方、聞こえてきたサドゥ(遊行者)たちの唱えるマントラ。それは、地に響かせるようなものと感じた。

スリーラーム、ジェイ、ラーム、ジェイジェイ、ラーム。

ところで、仏教のお経や祈りの響かせ方は、どちらかというと、地に響かせるエネルギーと感じる。身体でいうと、丹田に響かせていくような。

いっぽう、神道は天に響かせるエネルギーと感じる。あたまのてっぺんから抜けていく感じ。

たかまのはらにーーー、かむつまりますぅーーー、かむろぎ、かむろみのぉぉぉ。

どちらも、これまた味わい深い。ぼくは、ときに神道祝詞をよみ、仏教やヒンドゥーのお経をよむ。ときに、南無妙法蓮華経であり、ときに南無阿弥陀仏。そして、オーム・ナマ・シヴァーヤであり、ハレー・クリシュナであったりする。

教義の内容はともあれ、声の響きと身体感覚というところからみてのはなしである。

いま・ここに向けて努力するということ

努力なくしては、なにごとも実現しない。目標に向かって邁進する、あきらめない、忍耐する、励む。それがたいせつ。

そんなこといわれると、あんまりいい印象ではない。我慢が苦手だから。がんばりたくない。直感と好みで動くほうだから……。

でも、努力と集中をみている。集中は、いろいろなものを排除して、ひとつのものに注意を向ける、焦点を当てるというところ。

いまみている努力と集中というのは、「未来」に向けてのものじゃあない。「いま」に向けて、だ。

「いま・ここにあること」に向けての努力であり、集中だ。

これは、とっても難しいこと。「いま」というのは、この瞬間だ。瞬間がすぐに過去になるから。瞬間瞬間がどんどんと過ぎていくから。

それを「いま」につなぎとめようとする。そこに努力する。いまに集中する。そこに努力する。

ああ、ほんとうに難しい。で、「あっ、いまにいない」「いまここにいなかったな」というのは、わりと気がつく。後からだけど。

すぐに思考に入ろうとしてしまう。そうして、思考は、過去や未来にはたらく。いまここに働かない。

「いま、ここ」にいないというのは、体とあたまがバラバラということ。あたまだけが、未来にいく。過去にいく。あるいは、どこか別のところにいく。からだは、いまここにあるのに……。

そこをがんばって、「いま・ここ」につなぎとめる。努力する。それはたとえば、いまの体の動きに意識を向けること。たとえば、呼吸に意識を向けること。

いま起きた感情、感覚に意識を向けること。その努力というところ。そこの試みをしている。さて、どういうことになるか。