過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

一神教は、砂漠の宗教という背景があるだろうか

一神教は、砂漠の宗教という背景があるだろうか。

砂漠をすすむときには、各自が勝手にいくと、危ない。強力なリーダーの統率のもとに旅をすることになると思う。

モーゼのような強靭なリーダーに統率されて、ユダヤの民は奴隷状態であったエジプトを脱出する。モーゼは神の言葉を受けながら、神との約束を確認しながら、進んでいく。率いていく。やがて砂漠を渡ってカナーンパレスチナ)の地にたどり着く。

砂漠は日が昇る前は、ものすごく寒い。凍える。ところが、日が昇ると、ぎらぎらと身を焦がすような太陽の光が恐ろしい。逃げ場もない。木がない。水もない。

砂漠の民は、唯一の神、統率するリーダー。そこに全託するというありようになるのかもしれない。リーダーに逆らえば、いのちが危ない。きびしい契約が求められる。

いっぽう、木や草が繁茂する地域では、様相がちがう。

各自が勝手に暮らしても、生きていける。いのちをはぐくむ土、太陽、水、草木、風……そういうものに感謝する。そこに神をみるのかもしれない。多神教となる。神とのきびしい契約など必要ないのかも。