過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

二宮尊徳の仏教思想

戦前は刻苦勉励の手本のように言われた二宮尊徳だが、その仏教の捉え方は、なかなかわかりやすい。

◉浄土とは

「浄土」と書けば、清浄な美しい土地である。

「静土」と書けば、閑静なよい土地である。

「上土」とすれば、この上なくよい土地である。

「定土」とすれば、安居できるよい土地である。

「常土」ならば、常住できるよい土地である。

実に、浄土という音もおもしろいものではないか。

思うに、一心を悟れば、どのような土地にいても、すべて浄土である。

士農工商がおののの業務を楽しみ、その他のことを顧みないならば、それも浄土である。

たとい子孫が多くてもその家に安住できず、衣食を失ったならば、すなわち地獄である。

阿弥陀

阿弥陀如来」について、尊徳は次のように展開している。

阿弥陀」とは、天・地・人のことである。

天を「虚空蔵」として、地を「地蔵」とし、人を「観音」とする。

「天」は雨露を降らし、「地」は万物を生じて、ともに無尽蔵である。「人」は世の中の音声を観じて、今日を営む。すなわち、観音である。

ここに三仏の徳が具備するから、これを名づけて阿弥陀といい、仮に仏像の姿かたちを設けて、衆生を済度するのである。

※無尽蔵な資源を与えてくれる天と地がある。そして世の中の音声を観じて、日々を営むすがたこそが観音である。この天地人の和合こそが、阿弥陀の本質である、と。(池谷のまとめ)

尊徳の報徳思想の展開していくフィールドこそが、遠州だった。浜松市民はそのことは、ほとんど無関心のように見えるけど。

二宮尊徳「語録」「夜話」抄』やまと文庫(三樹書房)より