過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

仏教と先祖供養について

仏教の源流インド(4)

インドの方とお話する機会が多い。異文化の人から聞かれると、そもそもどういうことなんだろうと、気がつくことが多い。とくに、インドの文化からでてきた仏教が、日本でかなり変容していることに、あらためて気がつく。日本仏教の特殊性について考えさせられる。

そのインドの女性に聞かれた。インドの考えでは、ひとは死んでまた生まれてくる。次に生まれるまでの間は、だいたい四十九日。こうして生死・生死と輪廻する。ひとは悟りをひらいていなければ、死んだらまた生まれてくる。それがインド人の死生観。だから、インド人はお墓を作らない。

インドで生まれた仏教は、その輪廻から解脱するのが目的なんでしょう。輪廻は大前提にある。けれども、日本の仏教では、一回忌だの三回忌、ときには五十回忌などを行っている。それは仏教徒として、どんな理由で供養をしているのか、と。

たしかにそのとおりだ。「生命には輪廻がある、生死を繰り返すのは、苦である」というのが仏教の大前提なのだ。ブッダは、そこから脱しようとして修行した。すなわち、解脱(げだつ=輪廻を脱すること)が悟りである。なので、ブッダが悟りを開いた時、「もはや迷いの生を繰り返すことはない」「わが迷いの生はすでに尽きた。もやは生まれてこない」と述べているわけだ。

生命は輪廻するとしたら、死んだ人は、霊界などにいないで現世にいる。そうしたとき、霊界とかあの世にいるであろう死んだ人を供養するのは、意味がない。そこに先祖がいないのだから。なので、仏教からみると、先祖供養というのはおかしい。それはそうだ。

でも、日本仏教というのは、インドのブッダの純粋な教えじゃあない。底流にはブッダの教えがあるけど、そこに儒教神道民間信仰が入っている。「回忌法要」などは、儒教、そして神道の考えがつよい。「位牌」などは儒教からきている。

神道においては、ひとは死んだ時は、荒御霊(あらみたま)という、鎮まっていない状態と、とらえる。長い年月をかけて供養することによって、次第に、和御魂(にぎみたま)になっていく。安らかな魂になっていく。その期間が、だいたい三十三年くらいかかる。そうして、やがては「祖霊」といって、先祖霊(集合霊)に同化して、一体となって子孫を見守ってくれるという考えがある。

日本人としては、亡くなった人が「あの世」みたいなところにいて、子孫を見守ってくれている。供養すると喜んでくれるという考えが、しっくりするのだろう。そういう考えと、仏教が同化して、あるいは取り入れて、いつの間にか、仏教は先祖供養の教えみたいになってしまった。

どちらが正しいとか、間違っているとか、そういうことはわからない。ただ、お経を読んだり、墓参りしたり、塔婆を立てたり、そういうことがはたして供養になるのかどうか。先祖がよろこぶのかどうか、そこがわからない。まあ、たいせつなのは、いまの自分を形成してくれた親に、そして先祖に思いをいたすこと。そのことは大切とは思うのだが。