過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

父母の孝養のためとて、一辺にても念仏申したること、いまだ候はず

「あの世」とか「死後の霊界」とか、あるのかもしれない。しかし、ある一定期間が過ぎたら、あらたないのちとして生まれてくるのかもしれない。だから、先祖供養しても、その先祖は「あの世」にいない。もう次のいのちとして、この世に生まれてきている。

なので、親しい家族、友人、日々出会うひとたちこそが、先祖の生まれ変わりである。そういう人たちをたいせつにすることが、先祖供養の本質なのかもしれない。ぼくの実感としては、1歳8か月のあかりが、母の生まれかわりのような気がしている。かといって、先祖供養を否定しているわけじゃあない。それもとてもたいせつ。

これは、親鸞の言葉に触発されたことでもある。親鸞はいう。「自分は、亡き父母の供養のために念仏したことなど、一遍もない。どうしてかというと、いのちあるものは、生まれては死に、そしてまた生まれては死にを繰り返している。いのちあるもののすべてが、自分の父母でありきょうだいである」

──親鸞は父母の孝養のためとて、一辺にても念仏申したること、いまだ候はず。 そのゆゑは、一切の有情はみなもて世々生々の父母・兄弟なり(歎異抄) ──

そうして親鸞はいう。わたしたちは、所詮は自力でひとをすくうことなどできやしない。如来の本願におまかせして、成道に往生して〈さとり〉をひらいてはじめて、有縁の人を導くことができるのだ、と。このあたりになると、ぼくには阿弥陀信仰がないので、わからないところだけど。