過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

これって大荘厳懺悔だなあと感じるようなことも

運気の続き──運気をあげる道はなかかな難しいけど、運気を落とす道というのは、わかるような気がする▲たとえば、愚痴をいう。ひがむ。嘆く。人の悪口を言いふらす。イライラして怒鳴る。立場の弱い人を威嚇する、ぞんざいに扱う。自慢する。他をけなす。おお、いっぱい挙げられるぞ▲まあそういう暮らしは、まちがいなく運気が下がることだろう。とくに怒りは問題。怒りをあらわにすると、運気は下がるような気がする。ぶすぶすと不完全燃焼の怒りもよくない。このあたりはよく実感するところだ。

ということなら、これと反対のことをすれば、運気が上がるのかもしれない▲愚痴を言わない。悪口を言わない。けなさない。やさしい言葉をかける。立場の弱い人を大切にする。怒りをぶつけない。自慢しない▲では、祈りはどうか。いくら祈ったって、怒りの心、復讐の心で祈ったら、それは濁った祈りだろう。ますます身体によくないし、達成は難しいと思う

ただ、祈り続けるなかに、だんだんと自分がみえてきて、自分の愚かさがわかってきて、いやあ恥ずかしい、あかんなあ……とつくづくと気づかされることがある。それが、まあ懺悔(さんげ)ってなものだと思う▲仏教では、〈大荘厳懺悔〉というのがある。キリスト教のいう罪の告白をするという懺悔ではない。仏(また、宇宙といってもいいかも)に明け渡していく。からっぽになっていくと、宇宙のエネギーがながれてくる。自分のサビというか、ケガレというか、それが洗い流される。

えんえんとお経をよみ、真言や念仏、お題目唱え。しぜんと坐禅に入ってゆく。そういうなかで、これって大荘厳懺悔だなあと感じるようなことが、たまに起こる▲まあ、そうなると、達成とかどうでもよくなるんだよね。どうでもいいじゃないか、そのまま、いまがありがたい、と▲で、そういう手放したような心でいると、自然と物事はうまく運ぶようなことがある。そのときは、達成してもいいし、しなくてもいいという境地になっているんだけど。