過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

戦争中の浜松のこと

きのう入浴施設で出会ったおじいさんとの語らいから──▲この方は、かつて「フジヤマのトビウオ」と称された水泳の古橋広之進の2級後輩で83歳になる。本人も水泳で国体にも出たことがあると言っていた▲妻が三年前になくなり、その実家が近くにあって時々、空き家の草刈やら見守りに来るのだという▲こういう方から人生体験を聞き出すのは、ぼくの楽しみの一つだ。その方から、戦争体験のことなどお聞きした。

戦争中、浜松は、数多くの空襲を受けた。軍の施設や軍需工場がたくさんあったからだ。また浜松は東京・名古屋への空襲の際の侵入ルートに当たっていた。空襲後、基地に帰る部隊は残った爆弾を浜松に捨てて、軽くなって御前崎の方向から帰っていったという▲さらには遠州灘沖の海上からの艦砲射撃を受ける。軍艦から大砲を打ち込まれるのだ。そのときの不発弾は、いまでもあちこちに残っているようで、ときどきその撤去作業がニュースになる。この砲弾の残骸は、戦後の鉄くずの高価なときに、売りにいったと聞いた。

敗戦となり、アメリカ軍が海から上陸してくると、なにをされるのかわからないとみんな山に逃げた。女は丸坊主にして、男のような格好をした▲山の上から見ていると、どどどおーっとアメリカの大軍が上陸するさまはすごい迫力で、こんな敵を相手にして日本は勝てるわけがないと、そのときはじめてわかったという。当時の日本は、神州不滅、竹槍でえいやーという時代であった。