過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

ただ坐るのがいい

ただただ、坐るのがいい。ヨーガもストレッチも、マントラもお経もいい。そしてやはり究極は、ただ坐ることだと思う。

坐っているだけ。なんにもしない。これほどシンプルなことはない。眠っているわけではない。ちゃんと頭は冴えている。ただし、なにもしない。それだけに、いろいろ動き出す。

なにが? 頭の中だ。考えとか想念が動きだす。行く末を考え、過去を悔やみ、ああしようかな、こうしようかな。いろいろと頭の中は忙しく動き回る。それがみえる。

人というのは、たぶん四六時中、そうなんだと思う。静坐することで、頭の中の動きがみえてきただけだと思う。

考えというものは、エネルギーを使う。浪費する。考えが止まると、エネルギーが漏れない、エネルギーが蓄積される。考えが止まると、静寂になる。澄み切った湖面が、青空や山や樹々を映し出すように。

しかし、考えは止まるものなか。それが難しい。止める方法はある。実践していくと、頭と心がスッキリしてくるのが分かる。

それはなにか。出る息、入る息を、ただ味わっていくだけ。

息を吐く時の鼻や口から出る風の感触、吸う時の風の感触を味わう。あるいは、体の感覚を味わう。

吸うときには体が膨らむ。吐くときには、体が縮まる。膨らむ、縮まる、膨らむ、縮まる。その体の感覚を、ただ味わう。

そうすると、考えを追わなくなる。考えがあちこち暴走しなくなる。考えが鎮まってくるとも、とても心地よい。そして、やがて元気になっていく。ということで、朝の坐禅の体験を書いてみた。

本質は手元にある。半径5メートルにある

茂木さんのTweetから、いつも学ぶ。適確に数行でメッセージを発している。

                                                                            • -

大学に行かないとできないとか、留学しないとダメだとか、そのような、何らかの外部の条件に自分の夢が依拠する時代は終わった。それらのことは助けになるかもしれないが、本質は手元にある。半径5メートルにある。何の条件もいらない。自分が踏み出す確かな意志があればいい。足元の土があればいい。(茂木健一郎Tweetから)

                                                                            • -

たしかにそうだ。インターネットがあるわけだから、学びの機会は目の前にある。しかも、自らが発信していけば、世界の人とつながることも可能。

日本の大学も、授業をインターネット配信して、自由に受講できるようにしたらいい。

「どこそこの大学を出た」というよりも、「○○先生の講座を受講し、論文を提出して、単位をもらった」ということが評価されるような世の中になるといいんだけれど。

しかし、そうなると大学に入学しなくなって、大学の経営が成り立たなくなるか。教師の人件費も出なくなるか。

まあしかし、そうした選択の幅がひろがっていく時代になっていくと思う。