過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

遺された方へのグリーフワーク。 こうしたとき、ほんとうに宗教としての底力が。

いかに笑顔を見せようが、楽しいことを喋ろうが、からだの奥底からつらさ、悲しさが伝わってくる。

とてもお世話になった親しい人。まさに「よき隣人」とはこの人。
でも、なかなか、わざわざ訪ねて挨拶もできない。

こうして、ばったりとすれちがうのがありがたい。これで二度目。「おお!」「おお!」とそれで立ち話。
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息子さん(50代)が横浜の中華会で食事中に倒れた。脳幹出血で亡くなった。
プロレスの月刊誌のカメラマンをしていた。
「その写真を見せてくださいね」とかねがね言っていた。
撮影中にタイガー・ジェット・シンにつかまって、リングで放り投げられたこともあるという。
その息子さんだ。
ひとり暮らしだったので、横浜のアパートの片付け等すまして、四十九日も終わりもうすぐ初盆。

こんど、あかりを連れて写真を見せてもらいに行くかなあ。
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重篤の人への見舞い、看とり、おくり、そして供養。遺された方へのグリーフワーク。
こうしたとき、ほんとうに宗教としての底力があるんだと思う。
けれども、いまの檀家仏教では、葬儀と法要のみ。ほんとに遺族に寄り添うなんてことはできない、しない。

まあもそれでも、なにかお坊さんがお経をよんでくれると、安心はあるのだと思うが。
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幼子をなくした室生犀星の詩を思い出した。
詩の力ってすごいな。
「我が家の花」の詩をピックアップしてみた(長いのでほんの一部のみ)。


   笛
悲しきとき笛を吹きけり。
ほそく静かに吹きけり。

   溜息
わが家には子守唄はたと止みつつ
ひとびと物言はず
ものうげにうごくことなく
ただ溜息のみつき
きのふもけふも暮れけり。

   夜半
みな花をもて飾りしひつぎをばとりまき
あめふる夜半《よは》をすごしぬ。
人の世のちひさき魂をなぐさめんと
けぶる長き青い草のやうなるせん香を
たえまなくささげたりけり。

その座にわれもあり まづしき父おやとして
そだちがたきものをそだてんと
日夜のつかれさびしき我もつらなりぬ。

   靴下
毛糸にて編める靴下をもはかせ
好めるおもちやをも入れ
あみがさ、わらじのたぐひをもおさめ
石をもてひつぎを打ち
かくて野に出でゆかしめぬ。

おのれ父たるゆえに
野辺の送りをすべきものにあらずと
われひとり留まり
庭などをながめあるほどに
耐えがたくなり
煙草を噛みしめて泣きけり。

    我が家の花
もはや眠らん子どもとてなし。
かくして我が家の花散りゆけり。

その小さき影ちぢまり
わが部屋の畳に泌みきゆることなし。

   いづこに
わが家の湯殿に
灯を入れ
母おやひとり湯にひたれり。
膝の上に児のありしものを と 悲しむ。
いくたび我もそれに触れけん
まろやかに肥えたる我が子の
胸おもひいでて泣きけり。

ゆめのやうなる人生に
われのみ居残れるものか、
水溜りをさし覗けば樹のうつれる、
されど我が子うつらずなる……。